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少女サナトリウム

シナリオライター木野誠太郎(きのせい)があの事件についてついに語ります 連絡先⇒kinoseitaro@gmail.com

小説『ありとある物語の物語』(上)

『ありとある物語の物語』という小説を書きました。

長いので上中下にわけますが、お時間あれば読んでいただけますと幸いです。

 

 ありとある物語の物語

 

tout aboutit en un livle.(すべては一冊の本となる)

――ステファヌ・マラルメ

 

 

 両親が眠りに就いたのをドアの陰からそっと確認して、それからぼくの活動はスタートする。昼間、ぼくが宿題をするはずだった時間にこっそりとしたためておいた原稿用紙の内容を、リビングにあるパソコンでタイプしていく。この夜中の作業は、一日に一時間しかパソコンをすることができないぼくにとって、決して欠かすことのできないものだった。

 ぼくの字はお世辞にもきれいとは言えない。だから、ちゃんとパソコンで入力して、印刷することで、活字にしなければならないのだ。慣れない手つきで一字一字、ローマ字を打ち込んでいく。音素―文字―単語―文節―文章へとそれらは変化していき、最後にはそれは「小説」という物語となる。

 完成した「小説」をさらに、いくつか編集してならべる。すると、今度はその作品のことを、「小説誌」と呼ぶことができるようになる。その「小説誌」の状態になるのに、およそ一週間かかるので、ぼくはこれを週刊で発行することにして、『週刊少年太宰治』とタイトルをつけた。

 それはぼくが、学校の授業以外ではじめて創作とかかわるきっかけとなった作品だった。

 『週刊少年太宰治』を、家庭用のプリンターでコピーして、机の上で端をそろえ、ホチキスで留める。

 ぼくが学校で使っているホチキスで留められる、コピー用紙の枚数はたかだか十枚と少しなのだけど、今週号は長くなってしまったので、むりやり二十枚をひとつにして、完成。

 コピー用紙二十枚といえど、両面印刷で、用紙の端のほうまでびっしりと印字してあるので、そのボリュームはバカにならない。その完成品をぱらぱらとめくって、抜けがないか確認すると、ぼくはこっそりと自分の部屋にもどり、布団にもぐる。しかし、布団にもぐったとはいえ、興奮してなかなか寝付けないのも、いつものことだった。

 

 今週の『週刊少年太宰治』のラインナップは、こんな感じだ。

 

 

 これらの作品はどれも、けっこうな自信作だけど(当然、自信作でなければここには載せないようにしてる。ぼくにも小説家の自負があるのだ)、なかでも、今週号で最終回を迎える、「人間失格」は、いままでのぼくの作品のなかでもっともできのよいもので、書いたぼくとしても自分を誉めてやりたくなるくらいの作品であった。

 もちろんぼくは太宰治ではない。太宰治の熱心なファンでもない。

 

 なぜ、太宰治の「人間失格」がぼくの作品か、まったく理解できない、熱心な太宰ファンのために釈明しておくと、ぼくの友人であり、『週刊少年太宰治』の唯一の読者であるアイシンカクラは、日本語の書き言葉が堪能でないため、ぼくは太宰治の作品を児童向けの名作文学のようにわかりやすく編集したのだ。

 また、週刊連載という立場をとっているので、一話ごとに山場をもうけたり、読者(もちろん、ここではアイシンカクラその人のことである)の反応によって登場人物を勝手に作り出したりといった若干の変更を加えていて、ここにぼくが作家たるゆえんがある。

 すべての物語るものは作家であり、すべてのものが語るべき物語を有しているというのが、ぼくの持論だった。

 

苦心してつくった、『週刊少年太宰治』が日の目を見るのは、翌日の放課後。太陽が沈みかけて、外で遊んでいる子どもたちが、少しずつ帰りはじめる時間だった。秋の、やや熱気をうしなった真っ赤な太陽が、遠くの山の、さらに向こうへと降りていって、その向こうにはなにがあるのだろう、そんなことを考えながら、友人のアイシンカクラと一緒に下校していた。彼女は、毎週金曜日に委員会の活動で、帰るのが遅くなるので、その間だけ、ぼくと行動を共にすることができる。そして今週も、帰り道の途中にある空き地で、休憩がてらにそれを読んでもらう。

 ぼくはコピー用紙をホチキスで留めただけの、簡素な作りの『週刊少年太宰治』を、アイシンカクラに読んでもらっている最中、彼女のページをめくる指先をじっと見つめていた。

 しなやかな指だ。

 おそらく世界中の作家がどんなに苦心して、修辞を考えても、アイシンカクラの指を描写することはできない。その指は、彼女しか完全に、正確に、描けないものだろう。

 アインシュタイン一般相対性理論よろしく、ぼくがじっと彼女のことを観察しているうちに、いつの間にか三十分が過ぎ、一時間が過ぎ、あたりが薄暗くなってくる、ちょうどそのころ、彼女のページをめくる手がだんだんと推進力を失っていくように、スローになっていく。

 本を読み終える直前に、ページをめくる手がすばやいままだと、ブレーキが利かないことを彼女は知っているからだ。

 最後のページをめくり終えて、その描写することもはばかられる美しい手は本を閉じる。

 アイシンカクラは、そのつやのある黒髪をかきあげ、はあ、とため息をついた。いや、あるいはそれはため息ではなく、深く呼吸することを、この世界に戻ってきてはじめにすることと決めているのかもしれない。彼女は『週刊少年太宰治』を読み終わって第一声、にこやかにこう言った。

「今週もおもしろかったよ!」

 

 それだけで、そのひとことだけで、ぼくはこのつらく、きびしい『週刊少年太宰治』の発行を続けることができるのだ。

 辞書における「小説家」の語義は、

 小説を書くことで報酬を得る職業。

 であるらしい。

 貨幣経済において、貨幣の価値はひとびとの承認によって決まるように、ぼくは小説を書くことで、価値ある報酬を得ている。だからぼくはひとりの読者しか持たないが、「小説家」といって差し支えないのではないだろうか。

 なんて、ちょっと自信を持ってみたりする。

 アイシンカクラは、大きく、すこし垂れた目をぱちくりとさせて、大げさに驚いた。

「あっ、もうこんな時間」

「? 時計ないのになんでわかるの?」

「むかしの人は、時計なんて使わなかったでしょ」

「使わなかったの?」

「もう! ニノミヤくんそんなことも知らないの?」

「ごめん……ってどうしてニノミヤなの」

「歩きながら本読んでるじゃん。それ、ニノミヤキンジローって言うんでしょ」

「そうかもしれないけど」

「学校の銅像もさ、キンジローだし。ちょうどいいじゃん」

なにがちょうどいいんだろう。ぼくは納得いかないながらも、とりあえずうなずいておいた。

 アイシンカクラはぼくのそんな態度を見抜いたのか、いぶかしげな顔を一瞬だけして「まあいいわ」と言って腕組みをした。眉をひそめた顔すらかわいい。

「それじゃ、オウガイくん。オウガイくんにしよう。それじゃ、またね」

やれやれ。今度は森鴎外か。

 ぼくは名前をおぼえてもらえないのか、はたまた、彼女はぼくの名前を呼びたくないだけなのか。

 

 もしかしたら、彼女はぼくのことを、ひとりの作家として認めていないのかもしれない。

――いやいや、そんなことはない。

 ぼくの空想が、自分の首を絞めかねないところにまで至るのを、首をぶんぶんと振ることで押しとどめる。

 それなら、彼女がぼくの作品を楽しんで読んでくれていることも、嘘になってしまう。

 そんなことは、断じてありえない。

 そう、思いたかった。

 

 ともかく、彼女はいろいろな日本人作家や、書物に関係のあるひとの名前をぼくの呼び名にしているのだ。

 ぼくの本名は、たしかにある小説家の名前が元になっているのだけれど、おそらく小学生の間で知っているひとはいないと思うので、割愛。

 

 アイシンカクラとさよならをして、来週の発行日までは彼女と会うことはない。

 どうやら彼女は、高貴な身分に生まれたらしく、習い事や家の用事で忙しいらしい。クラスも学年も違う(ちなみに、彼女は一コ上で小学六年生だ)ため、学校で会うこともない。

 だから、一週間に一度は、ぼくの学校の通学路の途中にある空き地で会うように約束しているのだ。

 その間、ぼくは次の号を発行する準備をするし、アイシンカクラは時間があればぼくの『週刊少年太宰治』のバックナンバーを繰り返し読んでいる。

 彼女いわく、「よい物語は、よいレコードのように何度も繰り返し楽しむもの」なのだそうだ。

 (   )冥利に尽きるとはこのことなのかもしれない。

 ちなみに、(   )の中に入れるべき言葉は、(小説家)か(男子)か、ひょっとしたら(サギ師)なのかもしれないので、あえて想像の余地を残してみることにした。

 

 ぼくはサギ師かもしれない。いや、サギ師だと思う。

 もしかしたら、すべてのフィクション作家がサギ師なのかもしれない。

 嘘の物語でお金儲けをするのだから、ぼくも当然サギ師であるべきなのだ。

 そんな話を、家に帰ってお母さんに話したら、「そんなバカなこと言ってないで勉強しなさい!」とどつかれた。痛かった。

 

 

 次の週、ぼくは放課後の図書室で、小学生には少しむずかしいと思われる『太宰治全集』を読んでいた。読み切りの作品を探すこともいつもの目的のひとつなのだけど、今回はとくに「人間失格」の連載が終わってしまったため、次なる目玉作品の連載を始めなくてはならなかった。

 やはり太宰治といえば、「斜陽」だろうか。いや、彼の現在の暗いイメージを打破できるような、明るめの作品を、ここで載せることで、『週刊少年太宰治』はもっとおもしろくなるのではないだろうか。いや、しかし今は「お伽草紙」の連載も途中だから――

 そんなことを考えていると、下校時間の放送が流れてきた。いつの間にか夕方となっていたようで、校庭をのぞくと、外で残ってサッカーをしていた男子たちが帰り支度をはじめているのがわかった。

 いつも、生徒たちの中で最後に帰るのは、ぼくかあのグループのひとたちのどちらかだろう。ぼくは、借りて帰るには重い『太宰治全集』を本棚へ返し、ランドセルを背負って家路についた。いつも、「全集」を借りるのはスマートではないし、家に帰れば勉強をしなければならないといけないような感じがするので、借りるのはだいたい三日前だ。

 薄暗い廊下を、足早に進んで、階段を下っていく間も、学校にはぼく以外、だれもいないように静かだった。先生はおそらく、職員室だろう。なんだかドキドキしながらも、校庭へと出て、サッカー組を横目でちらりと見て、それから、学校の外へと出た。

 

 街は、夕闇によって夜の世界へと移りゆく。陽が沈むのはその転換点なのだ。そこからは、小学生のぼくが立ち入っていいような世界ではない。大人の、それもごく一部のひとたちのための世界だ。ほとんどのひとが、明日の朝の世界のために、眠りについている。でも、もし誰もが寝ているような、そんな真夜中の世界を旅することができるのなら、どんなに心細く、好奇心あふれる冒険ができるのだろう。ぼくは、真夜中の執筆作業の間、ふと窓の外を見ることがあるけれど、たまに、だれかが、なにかあるわけでもないのに歩いているのを目撃するのだ。その、夜の住人の彼には、もしかしたらなんらかのイベントがあるのかもしれないけれど、ひょっとすると、なにをするでもなく、ただ歩いているだけなのかもしれない。そういった、夜を歩く彼についてのことを考えていると、ぼくはなんだか創作がしたくなってくる。夜の世界では、きっとぼくらの世界での常識は通じない。それに、ぼくらの世界で使われている、硬貨や紙幣といったものも、あちらでは必要のないものなのかもしれない。夜の世界には、夜の世界についての物語も、たくさんあるかもしれない。なんてことを考えているうちに、ぼくは早く大人になって、夜の世界へと行ってみたくなる。そこでは、さぞかし貴重な体験ができるだろう。

 

 信号機が目の前に現れたので、ぼくは空想の世界から一時的に戻って、あたりを見回す。ここからは歩道橋だ。周りをきちんと見ていないと、階段で転んでしまうかもしれない。

夜の世界へと移り変わっていく途中の、あいまいな世界では、自動車はライトをつけ、カラスは自分の巣へともどるように飛び立ち、夕方のほの暗い赤色を背景に、電線が宙に浮いている、そんな風景を、なにかにだけ注目するようなことなく、ぼんやりながめながら歩いていた。

 

 ぼくが歩道橋の階段を上り終え、車道の真上をわたっているとき、ふいにうしろから話しかけられた。

「おっす。元気?」

ぼくはその声音にたじろぎながらも、ゆっくりと振り返ると、長い影がぼくの顔を覆った。

 大女だ。

「お」の字を三回ならべた、そのニックネームの「お」の意味は「驚く」の「お」なのかもしれない。そこにはクラスメートのなかで、一番背の高い大崎という女の子がいた。大崎はいつも、男子にまざってサッカーをしていたり、たまにぼくの読んでいる本をのぞき見てきたりしていたので、正直言ってぼくは彼女のことがニガテだ。

「今日も遅いんだね。また本読んでたの?」

「まあ、そうだけど」

「すごいよね。頭いいじゃん」

「そんなことないって」

「いいって」

「そんなことないから」

謎の押し問答を続けながらも、ぼくたちは家へと向かっていく。大崎の身長は百六十センチほどあり、ぼくと頭一個分ほどの身長差があるので、自然と彼女のことを見上げるかたちとなってしまう。彼女は周りのひとたちに、粗暴なイメージを持たれているが、それは男子とよく一緒に遊んでいるからだろう。しかし、その評価は決して正しくないと考える。彼女はいろいろなことに興味があるのだ。家庭科や、図工の授業でも、ていねいに作品をつくり、それらの作品は、たいてい好評を得ているし、彼女の書く字もけっして雑とはいえない。ただ、男子と遊んでいることに対して、女子が好き勝手にイメージを流しているだけなのだろう。女子のグループに属さないことを異質に見ているのだ。

 

「ところでさ、なんで図書室で本読んでるの? 家で読んだほうが楽でしょ」

「家にいると、勉強しろってうるさいから」

「読書も勉強のうちに入らないの?」

「ウチはそうじゃないんだよ」

「ふうん。大変だね」

「大崎さんの家の子になりたかったよ」

「ウチはウチで大変だよ。貧乏だし」

「そうなんだ……」

 

なんというか。大崎さんの一言で、ぼくはなにを話していいのか、よくわからなくなってしまった。そのころには、大通りから、住宅街へと歩みを進めていたので、音といえば風が木々をざわつかせるものくらいだった。さらさらとそよぐ風は、季節が秋であることをぼくに強く思い出させた。秋はカナしい季節だ。なぜ、「カナ」しいのかというと、「カナカナ」と鳴くセミが、ふとした瞬間――秋にいなくなってしまっているからだ。もちろん、春も、夏も、冬も。どれも悲しい季節だけど、秋だけはカナしいのだ。

 

 そろそろ、大崎さんの家の前につく。大崎さんの家は、畳屋さんなので、このあたりに昔から住んでいるひとで、知らないひとはいない。軒先からは畳のにおいが漂ってくるので、ぼくは、アイシンカクラがこの街に越してくるまでは、よく遊びに来たものだ。そのことを、大崎さんは覚えているのだろうか?

「あのさ。頼みがあるんだけど」別れ際に、大崎さんは、今まで言いあぐねていたことを吐き出すように、口早に言った。

「いいかな」

「いいかな、って、まだどんな用かも聞いてないけど」

「なにも聞かないで」

「どういうこと?」

「あんたにしか頼めないの」

 必死の形相とは、まさにこのことだ。大崎さんは、哀願するようにぼくの手を取る。

 大崎さんはなにかを言いたげな表情だったけれど、肝心の言葉を生み出すことはできないようだった。かわりに、ぼくが尋ねる。

「どうして、教えてくれないのかな」

「それは……きっと、わかってもらえないと思うから」

「わかろうと努力するよ。それに、できるだけ引き受けたいとも思う。でも、なにをすればいいのか、このままだとわからないし」

大崎さんは、一瞬思案する。

「わかった。言う。言うけど、なにも言わないで」

「……わかった」

「わたし」

そのときの、くちびるの動きを、ぼくは今でも覚えている。ぼくは彼女のくちびるに、アイシンカクラのような神秘さを見た。彼女がそのとき、世界の真理に近づかんとするのが、ぼくにはわかった。

「わたし、ある『ことば』を探しているの。その『ことば』は、きっとわたしたちには扱えない『ことば』。だけど、わたしはそれを知りたい」

「ことば……」

「その『ことば』は、意味を知っているだけでは、ほんとうの意味で使うことができない。でも、あんたならきっと、その使い方を教えてくれる」

「それを探しに行くってこと?」

「うん。放課後に、探しに行かないといけない」

放課後。ぼくは放課後には、アイシンカクラのために空けておかなければならない。

「少しだけ、考えさせてほしいんだ」

「……できるだけ引き受けたい、って言ったじゃん」

「ごめん」

「来週までには、答え出してね。それじゃ」

 

 そう言うと、彼女は足早に畳屋さんのなかへ入っていった。ぼくは、大崎さんの頼みも聞いてあげたい。大崎さんの『ことば』にも、興味がないわけではない。だけど、ぼくはアイシンカクラを第一に考えなければならない。アイシンカクラは、戦っているのだ。ひとりで。

 ひとりで戦っている彼女を、ぼくは物語によって救わなければならない。

 ぼくしか救えないんだ。ほかの誰にも、その役目は回ってこない。

 だから、大崎さん。ごめんなさい。

 

 

 印刷した、『週刊少年太宰治』を持って、いつものようにぼくはアイシンカクラを待った。ふだんは図書室で待つことにしているぼくも、毎週金曜日の発行日だけは教室で『週刊少年太宰治』の最終チェックをする。そして、誤字や脱字があれば赤のボールペンで修正するのだ。その作業をするときには、自分の机で、辞書を片手に、というスタイルが一番しっくりくる。それに、図書室だと、ほかの本に目がいってしまう心配もあったからだ。たくさんの蔵書があるのはいいことだけど、それも締め切りの差し迫ったときには逆効果だ。読んだことのない、興味をそそる本があれば読んでしまうのは当然のことで、そのこと自体に罪はない。しかし、アイシンカクラに、よりよい作品を提供するのは、必ずやらなければならないことだった。彼女に強制されたわけではなく、自分の意志でやっていることなので、本を読むことももちろん可能だけど、それより大事なことは、つらくてもやり遂げなくてはならない。

 ぼくが作業をしようと、筆箱から三色ボールペンを取り出し、机から辞書を出したとき、ぼくは視線を感じた。顔を上げると、そこには大崎さんがいた。

「おっす」

大崎さんはあいかわらず、無愛想なあいさつをして、すでに下校してしまった隣のひとの席へと座る。

「毎週、それやってるよね。なにしてるの?」

「これは、『週刊少年太宰治』を……」

と、そこまで言いかけて、しまった、と口をつぐむ。『週刊少年太宰治』は、ぼくとアイシンカクラだけの秘密なのだ。不用意に口をすべらせてしまったら、面倒なことになってしまうような気がする。

 そんなぼくの思惑を知ってか知らずか、大崎さんはな顔をする。それから、「なにか隠してる?」と、いきなり核心をついてきた。さらに、「もしかして、わたしには言えないようなこと?」と追撃。こういうとき、女のカンというやつは恐ろしい。ぼくの一瞬の言動から、より大きな事実を探り当てる。アイシンカクラの聡明さとは別種のもので、まったく論理的なものではないけれど、こうなるとさすがに言い逃れはできないだろうな、そんな諦めの気持ちすら湧いてくる。しかし、そのままあっさりと打ち明けるわけにもいかない。ぼくとアイシンカクラの絆は、『週刊少年太宰治』の秘密がばれてしまったとして、簡単に消えてなくなるものではないと思いたいけれど、それでも若干の不安はある。アイシンカクラは、興味を失ってしまったおもちゃにも、ちゃんと愛情を注ぐ、心やさしい子なのだ。だから、ふつうなら大丈夫なのだろうけど、それでも、かけらほどの不安はつきまとう。

 真実を言うか、言うまいか思案していたら、大崎さんは、「まあ、誰にだって秘密はあるし。言いたくないならわざわざ言わなくてもいいよ」と、助け船を出してくれた。

「ほんとうに小説が好きなんだね」深入りはしないよう配慮してくれたのか、当たり障りのないことを聞く大崎さんに、ぼくも込み入った話はしないように、うまく調子を合わせる。

 大崎さんは、それからぼくの作業を、なにも言わずにじっと見ていた。正直、やりづらいような感じもしたけど、ぼくの校正のチェックが甘かったときには、きちんと指摘してくれて、その点に関しては、すごくありがたかった。案外、いいひとなのかもしれない。

 アイシンカクラとも、仲良くしてくれるといいな。なんて、そんなことを考えながら、ぼくは彼女の到着を待った。

 アイシンカクラの委員会活動が終わるころには、校正はすっかり終わっていて、ぼくは大崎さんと談笑している。内容は日常のことで、こういったことは、ほとんど両親にしか話さないので、同級生と話すのは新鮮だ。窓の外はとっぷりと夕闇に暮れていて、下校の放送も今にも鳴りはじめる時刻となっていた。とうぜん、教室にはぼくと大崎さんのふたりしかおらず、ぼくはアイシンカクラを、大崎さんはぼくが帰るのを待っていた。

 

「で、誰を待ってるの?」大崎さんはいい加減、待ちきれなくなったのか答えを聞いた。

「それは来てのお楽しみ」

「それもう三回目じゃん。その子、もう帰ったんじゃない?」

「そんなことないよ。毎週金曜日は一緒に帰ってるもん」

「ふうん。こんな遅くにねえ」

「委員会があるんだよ」

「何の委員会?」

「……えっと」

 

ぼくはまた、口ごもってしまう。ほんとうに、大崎さんに彼女のことを伝えてしまって、いいのだろうか? この時間に活動しているのは、図書委員と放送委員のふたつだ。そして、アイシンカクラは図書委員をやっている。しかし、大崎さんに、今日、ぼくが一緒に帰るのが図書委員だということを伝えてしまったなら――

 

「もしかして、あの子なの?」

「……」

「ねえ、なにか言ってよ」

 

 見る見るうちに、大崎さんの顔が怒りの感情をえていく。ぼくはそのことに失望した。それと同時に、アイシンカクラのことを伝えるのに、これほどうってつけの場面はないような、そんな俯瞰した気持ちさえ湧いてきた。放送委員が、帰りの放送をはじめる。ノイズの多い音声に、ほんの少しいらだつ。「全校生徒に連絡します。下校時刻です。すみやかに下校しましょう――下校時刻です――」

 

「あの子なの? って聞いてるでしょ! 答えなさいよ!」

「『あの子』じゃない」

その言葉に、一瞬怒りの表情を解く大崎さん。安堵したのだろう。でも、その安堵は杞憂だ。

「彼女には、アイシンカクラって名前があるんだ」

希望が打ち砕かれるような瞬間。大崎さんは、アイシンカクラによい感情を抱いていないのだ。性別といったものをおおよそ気にしない大崎さんも、結局はほかの大勢と大差なかったということか。

「失望したよ。大崎さん」

「なんで、あんな――」

「きみたちが勝手に差別しているだけじゃないか!」

「違う! あの子は、ケガれてる! ケガれた血よ!」

「血は関係ないだろ!」

「あんたは騙されてる!」

叫ぶ大崎さんのうしろから、ひょっこりとアイシンカクラが現れる。夕の赤色とぼくたちをアイシンカクラの澄んだ瞳は映し出しており、それを彼女は、どのように感じ取っているのだろう。ぼくと大崎さんの論争を、傷つきながらものぞいていたのか、あるいは、みにくい争いだと、悲観していたのかもしれない。ぼくは、自然とアイシンカクラの傍へ寄る。「世界で彼女はひとりぼっちだから、ぼくには彼女をひとりにしない義務があるんだ」そう大崎さんに、ぼくは伝える。大崎さんの目からは、ひとすじの涙が流れる。その瞬間には、街の車の音、木々のざわめく音、生徒が校庭を歩くときに鳴る砂の音――そういったものが、重層的に鳴り響いて、むしろ静寂を生み出していた。

静寂がどのくらい続いただろうか、「帰ろっか」アイシンカクラは落ち着いた声で言った。

「そうだね」ぼくは脊髄反射でそう答える。

 教室を去ろうとするぼくらに、大崎さんは背後から声を投げかけた。

 

「どうなっても知らないから」

 

 そんなことはわかっている。ぼくも知らない。そう返したかったけれど、アイシンカクラとの時間をぼくは優先した。彼女と話す、文学のこと、社会のこと、世界のこと――そういった話題のほうが、ぼくは日常のことを、ただくどくどと話すより好きなのだ。もちろん、大崎さんとの関係も大事にしたい。ぼくは、アイシンカクラが今週の『週刊少年太宰治』を読み終えるころ、提案する。

 

「今度、大崎さんと仲直りしたいんだ。だから、来週は『週刊少年太宰治』はお休みです」

「うん。きっとそれがいいわ。大崎さんは、『ある言葉』を探しているんでしょう?」

「どうして知ってるの?」

「そのくらい、サクタローくんを見てたらわかるよ」

ぼくは萩原朔太郎なんかじゃない。

「わたしね、世界のことはわからないけど、」

アイシンカクラはやさしい瞳をこちらへと向けて、ぼくの頬を、そのしなやかな指で撫でながら、言った。

「あなたのことなら、すべて、手に取るようにわかるわ。だってあなたは、わたしを愛してくれた、たったひとりのひとだもの」

 

そうだ。ぼくは彼女に愛を教えたんだ。「アイ」を名に冠しながら愛されなかった彼女に。世界に住まう、すべてのひとから愛されなかった彼女を、唯一。

だからぼくには義務がある。どんなに彼女が差別されたとしても、どんなに彼女が戦いつかれたとしても、ぼくだけは彼女を見捨てたりはしない。それが、ぼくにできるたったひとつのことだ。子どものぼくが、アイシンカクラに与えられるすべてなんだ。

 ぼくとアイシンカクラの、はじめての出会いは、二年前にさかのぼる。すべてを焼きつくすような、冷たくて、燃えるように熱い雪の日。一年に一度、雪が降るか降らないかのこの街に、十年ぶりに雪が積もった日のことだった。

 

 永遠に十二時しか指し示さない時計が、もうすぐ潤滑油によって動き出そうとしている。メンテナンスは十全になされていたし、部品の故障はなかったので、長い間、油が問題だとされてきたのだ。その時計を掲げる時計塔の下部には大きな病院があり、時計塔と病院の複合施設として有名になっていた。その病院は小高い丘の上にあり、さらにその下には、ぼくたちの住む街があった。

 病院は、街のどこからでも見渡せるところにあり、ぼくがその街にいるときには、どんなときでも、それを見ることができた。その時計塔はずっと十二時を示していて、時計としてはとくに意味をなさないのかもしれなかったが、ぼくはその時計塔の時計が好きだった。むしろ、ずっと十二時を示しているほうがよいのではないだろうか? ぼくは十二時しか示さない時計の存在を、どちらかというとありがたいと感じていた。ふだんのぼくたちの生活は、時間に縛られすぎている。決まった時間に起き、決まった時間に決まった科目の勉強をしなくてはならない。でも、それはすごく窮屈なことだと思う。時間を守ることは、たしかにいいことだけど、それでも疑問は残っていた。

 

 二年前のある夕飯どきに、ぼくのお母さんはふと、つぶやいた。

「あの時計、そろそろ動くそうよ」

 ぼくのお母さんは、とくに嬉しそうな感じも、残念な感じも見せずに、ただ、そのようにつぶやいたのだ。だからぼくも、「ふうん。そうなんだ」と、とくに興味なさげに返した。でも、内心ではすごく残念だった。そのとき、たったの十年ぽっちも生きていないぼくとしては、一年間止まっていた時計は、永遠に止まっているだろうと思っていたからだ。そうなれば、この街の名物の時計塔は、ずっと十二時のままで、同じようにこの街も、十二時のまま、永遠となるかのような錯覚におちいるような気すらしたのだ。

 そうなれば、ぼくの生活も永遠となる。永遠は尊いことだと、ぼくはなにかの本で読んでいたので、それはすばらしいことだと思った。しかし、そんな永遠への期待にも、(油をさすのだけど)水をさされたような気分だった。

 

 その翌日も、ぼんやり時計塔のことを考えながら登校していた。

 ぼくはそのころ、学校でもずっと本を読んでいるような生活をしており、今でも多くの時間を『週刊少年太宰治』に注ぎ込んでいるのだけど、そのころは、自分の殻に閉じこもったような生活をしていた。ヘッセの『デミアン』では、「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う」という印象的なメッセージがあり、ぼくもそうしようと試みたこともあったけれど、そのころの同級生には、およそ知性といったものを感じられず、ぼくは結局ひとりのままだった。だけど、登校中から下校中まで、ずっとひとりだったにもかかわらず、それがまったく苦にはならなかった。ただ、ぼくにも、ぼくのことをわかってくれる「友人」がいつか現れることへの願望はあった。それはもちろん、願望だけであって、ほんとうにそうなることは、まったく期待してはなかったのだけど。

 

 自分のホームルームにつくと、クラスでは時計塔の話題で持ちきりだった。そこでもぼくは、話題の輪に入ることができないまま、聞き耳を立てながらずっと本を読んでいるふりをしていた。クラスメートは時計塔の話やら、どこから広まったのか、時計塔や、その下に位置する病院のうわさを話していて、その内容といったら「あの時計、動くらしいね」とか「あの病院、ユーレイが出るらしいぜ」とか、そういった取るに足らないことで、ぼくはその話題に参加しているひとを、心底冷めた目で見ていた。

しかし、その話題の中で、唯一ぼくの興味をひいたのは、「あの時計塔に、人が住んでるらしいぜ」という一言だった。ぼくはそれを聞いた瞬間、読んでいた『ラプンツェル』を閉じ、表紙のイラストをまじまじと見る。

塔に閉じ込められたお姫様を救う、男の絵がそこにはあり、ぼくはその日、時計塔へと行くことを決めた。これはぼくのための物語なんだ。心の奥底で、なにか痺れるものを感じながらそう思った。

 

 授業が終わると、手袋をはめ、すぐに時計塔へと向かう。昼過ぎから雲行きは怪しくなっており、こころなしか肌寒さも一層のものとなっていたけれど、走っているうちにそんなことは気にならなくなっていた。走るとはいっても、小学生のぼくの歩幅なんてたかが知れている。大人の脚なら三十分程度で着くであろう道のりも、とてつもなく遠いもののように思えてしかたがなかった。走っている身体は熱を帯びて、ふだんから体温の高いぼくは、まるで炉に入れられた鉄のように赤く、刀のようにするどく、研ぎ澄まされていく。しだいに雲行きが怪しくなり、遠くでは雷が落ちたようだ。雷鳴がきこえる。さらに、空からはあられが降ってきて、ぼくの身体に打ちつける。

 これが雹(ひょう)だったなら、ぼくはその落下物の痛みにたえかねて、走るのをやめていたかもしれない。塔にはたどり着けなかったかもしれない。しかし、この程度の天候なら、まだ行ける。そんな奇妙な確信があった。

 丘をかけていくにつれ、その坂道に足を取られるようになっていく。しだいに、すりむいた膝は土と血のまじった、独特の色となり、はじめは痛がっていたものの、痛覚が麻痺してしまったのか、そんなことは、丘の上の病院が目前に迫ったころには、まったく気にならなくなってしまった。

 ぼくは時計塔を見る。

 時計塔は、ぼくを見下ろすかのように、丘の上にあって、その外壁はくろがねのように硬く、夜の空を象徴するような黒色をしていた。遠目に見るのとは違い、まるで、ひとが近づくのを拒絶するかのような無機質さを備えている気がする。

 塔の質量に、気押されながらも、その「立入禁止」を札を下げているロープをくぐって、塔の階段を上っていく。運動靴の音が、金属製の階段と、塔の中とに反響する。一度、走るのをやめてしまってからは、今まで走ってきた疲労がどっとやってきて、立っているのもままならない。息も絶え絶えになりながら、体重を前方へとあずけて、手すりを駆使することでようやく、階段を上ることができた。塔を半分ほど昇ると、鉄の扉に閉ざされた小部屋が、前方へと立ちはだかる。ぼくはその扉のノブを、ゆっくりと回転させ、押しあける。小部屋からは蛍光灯の灯り。その、人工的な光の感覚が、ここに誰かがいるという確証となって、ぼくに突き付けられた。

 ほんとうに幽霊などいるのだろうか。ふと、そんなことを考えてしまう。時計塔の作業員が、ここにきているだけなのではないだろうか。不安は、一度おぼえてしまえば、身体中にかけめぐって、心の中で肥大化していく。ひょっとすると、大人に怒られてしまうかもしれない。自意識がどんどんと膨らんでいき、くわえて、ぼくは疲れにあてられたのか、その場にへたりこんでしまう。なにが『ラプンツェル』だ。この世界が、この現実が、つまらないものの集合だから、ぼくたちは物語を求めるんじゃないか。

「誰?」

ぼくの不安を取り除いたのは、女の子の声だった。その声は、か細い、とまどうような小さな声だった。

「あなたは、いったい誰なの?」

それを聞いて、身体に鞭打って立ち上がる。そして、ぼくの名前を告げる。

「作家の名前なんだ」

「へえ。そうなんだ」

一歩一歩近づいていき、少女の姿をとらえると、ぼくはその、不健康なほどの肌の白さや、大人びていて、それでいてあどけない、ふたつの特徴が密接にかかわった美しさに感動すらおぼえた。

「きみの名前は?」

ぼくは、自分が名乗ったので相手にもたずねた。初対面の女の子に気の利いた会話をほどこせるほど、コミュニケーション能力は高くはなかったからだ。少女はうつむき加減のまま、その庇護欲をそそる、ちいさな声を部屋に響かせた。

「わたしは、アイシンカクラ」

「変わった名前だね」

「そうなの?」

「そうだよ。でも、いい名前だね」

それを聞いて、彼女は口を押さえて笑った。

「そんなこと言ってくれたのは、あなたがはじめて。ありがとう」

 

その姿に、ぼくは身体の力がすっと抜けていくような心地よさ――陶酔感と呼ばれる、そんな感じをあじわう。十年生きてきて、はじめての感情だった。足先がほんのすこし浮き立つような、とらえどころのない感覚。このとき、ぼくには声がきこえた。男のものなのか、女のものなのかわからない、中性的な声は、ぼくにこう言ったのだ。

「きみの人生、ここで変わるよ

まさに天啓だった。指先が、わなわなと震えるのがわかる。足先が、じんじんとうずいている。これが運命なんだ。ぼくは震える両の指を、きつく、かたく、握りしめる。じわりと汗がにじんできて、冷たい外気を取り込んだ鉄の部屋に、ひとつの熱気をつくりだす。

「ねえ。作家さん」

アイシンカクラは、ていねいに梳かれた長い黒髪をひと撫でして、ぼくを哀願するような目で言った。

「わたしをここから、連れ出してくれない?」

そのとき、ぼくはどう返答したのかわからない。しかし、どんなニュアンスのことばを言ったのかは、とうぜん、わかっている。

 

「        !」

 

 そのことばを放った瞬間、時計塔の鐘は鳴りだした。耳をつんざくような、地鳴りをともなった轟音に、ぼくとアイシンカクラはへたりこむ。それでも彼女を助けなくてはならない! ぼくは走りつかれて、棒のようになってしまった両の脚を、生まれたての仔馬のように、踏ん張って立ちあがらせる。立ちあがるや否や、アイシンカクラの、力を込めてしまえば折れてしまいそうなほどに細い腕を取り、彼女を立ちあがらせる。しかし、その瞬間、床が大きく震えだし、ぼくらは自重の拠り所をなくしてしまう。

塔がくずれるんだ。

 悪い想像が脳裏をよぎった。しかし、それを止める手立てをぼくは知らなかった。周囲の金属壁がばらばらに分解し、地面へと落下していく。階段も、時計塔の歯車も、すべてひとつひとつのパーツに分解されて、重力にしたがって地面へと向かっていく。ぼくは、それらから彼女を守るように、落ちながら彼女を抱きかかえた。彼女は瞳を大きくひらいて、彼女の世界がくずれていくのを、なにも言わぬまま、じっと見つめているだけだった。ぼくはそのときに感じた、彼女の感触や体温を、すべておぼえている。世界のすべてから取り残されたように、華奢で、それでいてほんのりとあたたかい。ちいさな命を、身体中にみなぎらせているのが、ぼくの感覚器から、たくさんつたわってくる。

 

「あなたは、ほんとうのことを話してくれる?」

「ほんとうのこと?」

「わたし、知ってるよ。外に出ても病気になんかならないって」

「どういうことなの?」

「わたしのお母さんは、外に出てはいけないって言うの。外に出ると病気になる――お父さんも、それでいなくなったって」

「そんなことはないよ」

「そうなの?」

「でも……外は、つまらないところだよ。だからみんなが、お話を求めているんだ」

「そう……つまらないんだ。それでも、いいよ。だってあなたがいるんだもの」

 

 彼女は涙を目にためながら笑う。「行こうか」と言うと、彼女はゆっくりとうなずいた。ぼくたちは目を閉じる。それから、奇妙な浮遊感につつまれながら、ゆっくりと眠りに落ちていく。夢の中で、ぼくとアイシンカクラは、ずっとお話をしていた。とはいえ、ぼくが語った物語を、彼女がうんうんうなずきながら聞いているだけだったのだけれど。そこは広い草原で、すべての生き物が暮らしていた。ヤンバルクイナ・ヒポポタマス・トリケラトプス。それにいろいろな、ありとある動物や植物。ラフレシアや、ハエトリソウ、クローバーやノウゼンカズラ。もちろん、原人や人間も暮らしている。そういった彼らの話すお話を、ぼくは彼女がわかりやすいように、かみくだいて物語った。そこには、すべての物語があるような気がした。そうこうしているうちに、何か月が経っただろうか。「そろそろ、起きようか」ぼくがそう言うと、アイシンカクラは「いいよ」と言って、「これからも、いろいろなことを教えてね」と付け加えた。それから、感触を確かめあうようにゆっくりと、手をつないだ。

 

 目覚めると、ぼくはあの、小高い丘の上に眠り転げていた。半身を起こして、あたりを見回したけれど、そこにはなにもなかった。ぼくは思わず叫んでしまう。

「塔がない!」

そう。この街の象徴だった、時計塔は、跡形もなくなっていたのだ。しかし、つないだ手の感覚はなくなっていなかった。

「塔は、くずれて、なくなったよ」

アイシンカクラだ。

「時計も、もちろんなくなって、わたしたちは、永遠になったの」

曇天の隙間からは、太陽の光が覗き込んでいた。弱弱しい、冬の太陽は、それでも、春を予感させるには十分すぎるくらいだった。しかし、ぼくたちが草原で過ごした、あの数か月はうたかただったのだろう。そのことにほんのすこしだけ、落胆する。アイシンカクラは、ぼくの表情を見て、なにを思ったのか、ぼくの手をつよく握った。

 次の春。ぼくはアイシンカクラと再会することになる。全校集会で、彼女は例の、やさしい微笑みをぼくたちに向けながら、こう言ったのだ。

満洲国から来た、アイシンカクラです。わたしはお話が好きです、それも、植物や、動物。いろいろなものの持っているお話が。物語は、わたしのすべてです。すべてのものに物語があって、すべては一冊の本となるのですから――」

 

『ありとある物語の物語』(中)につづく