読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

少女サナトリウム

シナリオライター木野誠太郎(きのせい)があの事件についてついに語ります 連絡先⇒kinoseitaro@gmail.com

夜明けのBEAT

最近敬愛する作家の佐藤友哉氏がフジファブリックのトリビュート小説『銀河』を書かれたそうですが、なんという奇遇か、僕も二年前くらい前にフジファブリックのトリビュート小説を書いていました。

『夜明けのBEAT』という作品です。
同人誌『文学とはROCKである。』vol.1所収。

 

今から見ると大層つたない作品ですが、暇つぶしになれば幸い。

 

 

夜明けのBEAT

 心臓はばくばくと脈を打っていて、それが部室の静けさと不気味に対比しているようだった。しんとした秋の部室には、ボール籠や先輩たちのスパイク、スコアボードとともに、尾辻キリエの死体があった。ほのかな汗のかおりに誘われたかのように、女子バレー部員でもない彼女がそこに横たわっていた。
 彼女の死体は、まるで今でも生きているかのようにきれいだったけれど、その首には縄の痕があって、首を絞めて死んだのがはっきりとわかった。
 彼女——尾辻キリエは、白い死体だった。
 部室にひとつだけある窓から差し込む月の光が、彼女を白く照らしていたのだ。まるでこの舞台の主演であるように、無残に、残酷に、艶やかにライトアップされている。彼女の隣には、まるで自己紹介をするように生徒手帳が置かれており、それでわたしたちは彼女の名前を(名前だけではあるけど)知ることができた。
 異様な空間だ。いつもの部室とは違う、重たい空気がただよっている。
 とっさの出来事で凍り付いていたわたしだったけれど、状況がぼんやりとわかってくると、しだいに声も出るようになった。
「救急車呼ばないと……」
 わたしは、一緒に後片付けをしていた他の部員——知念クリス、瀬尾麻理花、町田もえ——たちに呼びかける。
 おろおろとするわたしたちの中で一番しっかりとしている麻理花は、何も言わず首を横に振った。練習のときに髪ゴムでまとめている彼女のポニーテールがゆれる。
「どうして?」
 わたしは麻理花のことが信じられず、声を荒げて問う。
「どうしてって、わからないの? わたしたちは、この子のことをまずはちゃんと調べないといけないでしょ。もしこれが、事件だったら、わたしたちは大会に出られないかもしれない」
 麻理花の発言に、わたしは何も言うことができなかった。たしかに、わたしたちは毎日の練習を大会のためにしていた。朝の練習も、放課後の練習も、休日の練習も、すべて大会のためにあるといっても過言ではない。二年の先輩も、代替わりをして間もない。三年の先輩がなし得なかった全国大会への出場を目標に、毎日をすべて練習に費やしている。
「でも、そんなの間違ってるよ」そう言ったのはクリスだった。わたしは思わぬ助け舟にほっとする。
「間違ってる、ってどこが」麻理花は怒ったように言った。
「いや、その」
「ほら、何も言えないでしょ」
「ごめんなさい」
 クリスも、麻理花には何も言えなかった。青春の時間のすべてを捧げているバレーボールを守ること——それがわたしたちの命題なのよ。麻理花はそう続ける。
 そのためには、尾辻キリエのことを知らなくてはならない。死んでしまった彼女は、どうしてここで死んでいるのか。誰かが殺したのか、それとも自殺なのか……すべてが謎のままだったから、事件を明るみにする前に、せめてそれだけでも知っておかなければならない。
 自殺だったなら、わたしたちは部活動を続けることができる。目標へと邁進することができる。
 だから知らなくてはならない。
 麻理花は、語調を強めてそう言った。ふだんのやさしい麻理花ではなく、バレーの鬼モードだった。そのことをみんな知っているだろうから、少しくらい強いことを言われてもあまり気にはかけない。もえを除いては。
 わたしたち四人は、尾辻キリエの死体からできるだけ離れるようにして、円になって座った。
「わたしたちの目標は、こんなところで終わりにしてはいけないの」
 麻理花は粛々と、誰にともなくそう言った。
 クリスはバレーボールを手に取って、それを不安を押し隠すように抱きかかえる。彼女の細い手足からは、恐怖が感じ取れた。わたしも同じだ。もえは事件がショックだったのか、ひとり呆然としている。
 もえは入学したときからそうだった。どんくさくて、バレーボールもわたしたちほど上手くなくて、練習試合でもベンチを暖めているけれど、性格は温厚で、すごくやさしい子だ。麻理花はもえのそういうところがあまり好きではないようだったけど、わたしは幾度となくその性格に助けられてきた。練習が激しく、つらいときにも互いに励ましあった。クリスも同じだ。彼女も臆病で小心者なところがあるけれど、その分、人がSOSのサインを出しているのをちゃんと見つけてくれる。
 麻理花は性格がきついところもあるけれど、バレーボールの上手さは髄一で、同じチームメイトとして信頼しているし、決して思いやりがないわけではない。少し他人に気を使うのが苦手なだけなのだ。だから、わたしたち四人は今まで、大きなケンカもなくうまくやってきたはずだ。
 大丈夫。
 こんなところで、わたしたちの関係を終わりにはしたくない。バレー部で、ずっとこのまま一緒に練習を続けていきたい。
 わたしたちはお互いの眼を見て、それが黒く澄んでいるのを知る。こんなにきれいな瞳だっただろうか。それとも夜が美しさを引き立たせているのだろうか。
 密約を交わすように、わたしたちは見つめあったまま、口角を少しだけ上げた。
「まずはこの子について、何か知ってることはない?」
 麻理花が口火を切った。
「わたしは……とくに」クリスが首を横に振る。それから思い出したように「二組の人じゃなかったっけ」と付け加える。
 わたしたちは五組なので、二組のこととなるとよくわからない。二組の担任は英語科の湯浅悦子だ。いつもねちっこく生徒を罵倒するけど、本人には授業の才能がない、典型的な人気のない教師というのが湯浅だった。おかげで、裏では「湯浅」だの「英語ババア」だの「ゾンビ」だの好き放題言われている。とくに「ゾンビ」は一部で人気のあだ名らしく、というのも彼女の顔は土気色でしわが多く、ふだん着ているスーツはワインレッドを基調としたものだったので、それが返り血を想像させて「ゾンビ」ということらしい。
「ゾンビのクラスね」
麻理花はそう言って考える。
「ってことは敷島さんが詳しいかも」
「敷島さん?」
クリスは聞く。
「敷島さんは二組だったでしょ」
そう言うとかばんから携帯電話を取り出す。携帯電話についているストラップが、月の光を反射する。女子バレー部でおそろいでつけているものだ。
 敷島香織はわたしたちのチームメイトだ。女子バレー部の沽券に関わることだから、事は大きくできないけど、逆に女子バレー部の中では連絡は取り合えるということを麻理花は考えたようで、すぐに敷島さんに電話をする。
 敷島さんは、先輩の羽鳥さんと同じ名前なので、「香織」とは呼ばれない。それはどうでもいいことなのだけど、些細な呼び名がわたしたちと敷島さんの間に、小さな壁のようなものを作っているような気がした。おかげで、敷島さんは部活動の間、どこか暗いのだ。それもあって、クラスでは友達を何人か作っていて、尾辻キリエもそのうちの一人であるかもしれなかった。
「もしもし。敷島さん? ちょっといいかしら……ええ。あなたのクラスに、尾辻さんっているでしょ? その子について、詳しく聞かせてほしいのだけど」
 麻理花ははっきりとした発音で、会話を続ける。その堂々とした態度に、人は気圧されてしまうかもしれない。彼女のゴムでまとめた長い髪や、そういった態度は、男子からも注目の的だった。それはいい意味でも、悪い意味でもだ。麻理花はよく異性に好かれるようで、愛の告白を受けることなんかも珍しくないそうなのだけど、それが原因で未練ある男性から嫌がらせを受けることもあるそうだ。たとえば、体操服を盗まれたりなんてこともあった。彼女は困ってはいたけれど、決してそれで弱ったりはしなかった。いわく、慣れているから、だそうだ。わたしには想像もつかない世界だし、そういった問題を解決できるわけではないけれど、運動ができて勉強もできる才女にも、陰はあるということである。
 麻理花は手早く電話を終わらせると、わたしたちに尾辻さんのことをつたえる。
 彼女は美術部に所属していて、ふだんは大人しい性格だったようだ。だからクラスでもあまり目立つほうではなく、これといって情報はない。しかし、一週間ほど前に、彼女は一日、学校を休んだらしい。
「それだけ?」
 クリスは怪訝な顔をする。か細い声が、しんとした夜の空気にこだまする。
「それだけよ」
 麻理花はぶっきらぼうに返す。
「それじゃ、なにもわからないじゃない……」
 失望感があらわになる。クリスはうつむいて、「もう無理」とつぶやいた。
「無理? 何を言ってるの? わたしたちはこの事件を——」
「麻理花。無理だよ、もう。やめにしよう? もうたくさんだよ。あとは警察に任せればいいじゃない。死体とずっと一緒にいるなんて、無理」
 そう言い捨てたクリスは、疲れきった表情をしていた。わからなくもない。死体とともにある張り詰めた空気は、精神的に追い詰められたような感じを引き起こすのだ。わたしだって、まったく平気というわけではない。半狂乱になりそうなのを、事件の解決という問題のすり替えでごまかしているにすぎない——
「無理でもやるしかないでしょ」
「麻理花はおかしいよ。どうしてこんなに事件に執着するの」
「あなたにはわからないでしょうけど」麻理花はクリスに冷酷な表情を向ける。「わたしはバレーに命を賭けてるの。こんなことで試合に出られなくなるなんて、それこそ死んだほうがマシよ」
「ついていけないよ」
 クリスと麻理花は、お互いに目を合わせないようにする。険悪なムードの中、わたしは沈黙を守っていたもえのほうを見た。もえはいがみ合いを、心底つらそうな顔をしながら見守っていた。鏡はカバンの中にあるからわからないけど、わたしもきっと、同じような表情をしているのだろう。空気が凍り付いている。同時に、今まで気にしないようにしていた体育系の部室のすえた臭いが漂ってくる。死体の臭いでなくて本当によかった。
 生活に根ざした臭いによって、少しだけ現実感を取りもどす。大きく息を吸うと、冷静な心がだんだんと表れてくる。
 わたしたちのうちの誰かの関係が険悪となったなら、きちんと別の人がそれを解決しなくてはならない。そういうものだ。
「みんな落ち着こう。ここでいがみ合ってもしょうがないんだから」
 とはいえ、それを言ったところで根本的な解決にはならない。この問題を解決させるには、二人の仲を取り持つか、あるいは事件を進展させるか——
 せめて、尾辻キリエのことがなにかわかったなら、違うのに。
 わたしは心の中でつぶやく。
 このままじゃ、なにもわからない。
 わたしたちは尾辻キリエのことを、半分もわかっていない。
 まったくといいほどつかめていないのだ。しかし、問題を放棄するのは麻理花が許しそうにない。わたしも、できることなら死体とは向き合いたくない。
 重たい空気を振り払うように、わたしは気持ちを落ち着けてきっぱりと言った。
「行きましょう。美術室へ」 
 その一言で肺の中の空気がなくなってしまったようなので、わたしはひと呼吸おいて、付け加える。
「もうそれしか残ってないでしょ。死体と一緒にいるのが疲れるのなら、気分転換もかねて」

 私立志見崎高校は山の上の学校だから、もちろんあたりには緑が多い。春には桜、秋には紅葉が山を彩る、どこにでもある高校だ。
 しかし、ひとつだけ異なっているのは、創立者の意志を継いで、徹底的な実力主義成果主義を取り入れているというところだ。大会やコンクールで成果をあげた部活動には、来年度の予算のが多く割り振られ、逆に、あまり成果を収められなかった部活の予算は削られる。そのため、一度予算を削られてしまうと、成果がよりでづらくなってしまうというスパイラルに陥り、強い部は全国クラスだけど、弱い部は細々と活動しているといった状況になってしまう。
 女子バレー部も予算を削られる憂き目に遭ってきた部だった。そのため、成績もまったく芳しくなかったが、三年前に麻理花のような熱心なキャプテンが現れ、徐々に息を吹き返していった。名前は五条明日実。年齢はそう離れていないけれど、すでに志見崎高校では伝説の選手となっている。今では彼女は全日本代表に呼ばれる選手となり、そのおかげで、わたしのようなバレーボールの強い学校に行きたいと考えている生徒が集まるようになったのだ。
 五条先輩の現役高校生だったころの試合を、わたしは何度も見に行ったことがある。憧れの先輩で、片思いに似た感情を少なからず抱いたこともあった。そのおかげで、わたしは志見崎高校に入学することとなったのだ。
 また、志見崎高校の外観は、その実力主義を体現したかのように、高い門と塀に覆われている。三メートルはあろうかという大仰な門と、その高さに合わせるように作られた塀は、ある意味、監獄のように見えるかもしれない。これは創立当時からあったものである。
 屋上の柵や校舎も、外形はほとんど変えられないまま残っていたため、安全にはあまり配慮されていないようだ。もちろん、耐震工事や改築なんかはされているようで、堅牢ではあるのだけれど……わたしたちはそんな檻の中にいた。
 夜の校舎は静寂につつまれ、あたかも時が止まっているかのようだった。明かりはなく周囲は暗黒、かろうじて月の光が射し込むことと、目と身体の慣れによって美術室への道のりをたどっているという感じだった。
 美術室は、わたしたちのいた部室棟から、十五分ほど歩いたところにある。部室棟が東端にあるとすれば、美術室は西端にあることとなり、その道のりは視界の悪さも相まって、だいぶ遠くに感じられた。
「教室の鍵は開いてるの?」ふと思い立ったように、クリスは聞いた。
「たしか、あそこは南京錠で鍵をかけてたはずよ」麻理花は自信ありげにいった。
「南京錠?」
「そう。文化祭の製作物を搬出するときに鍵を壊してしまった、って集会で言ってたじゃない」
「文化祭、ねえ」
 わたしは文化祭ということばに反応する。
 尾辻キリエが所属していた美術部では、いったい何が行われていたのだろう。記憶をたどると、文化祭の展示を、美術部員が仮装して応対していたことを思い出した。四ヶ月ほど前、五月の中旬の頃に行われた文化祭では、美術部が教室を借りて製作の展示を行っていた。同じ高校生が描いたものとは思えなかったという印象は残っていたのだけど、しかし、内容はそれほど覚えていない。幾何学的なものや、暗い感じの絵が多いようなイメージしか残っておらず、ほかの三人に覚えているか確認しても、それといった答えは返ってこなかった。
 美術室の前に着いたとき、もえがふと声を漏らした。
「そういえば、思い出した」
「どうしたの?」
 麻理花が聞く。ちょっと強い口調に聞こえたのか、もえは萎縮する。
「ひっ」
「ちゃんと答えて」
「……そういえば、サトゥルヌスの絵の模写があったかも」
「サトゥルヌス?」はじめて聞く名前だ。わたしは反復する。 
「我が子を喰らうサトゥルヌス、って絵画があるの」
「我が子を喰らう……って、物騒な絵だね」
 クリスは今の状況を悲観するような、そんな弱々しい口調で反応した。おそらく、精神的に一番まいっているのがクリスだ。彼女は人が怪我したりすると、思わず感情移入する子なので、死体を見たとなればなおさらだろう。
「サトゥルヌスの絵、ねえ。それは尾辻さんが描いたものなの?」麻里花は自分のペースに会話を持っていく。
「それは、よくわからない……」
 もえが答えたので、確認するしかないみたいね、と麻理花は返した。美術室の扉にふれながら、麻理花は「いくよ」とわたしたちを見た。
 麻理花は、どこから拾ってきたのか、手頃な大きさの石を取り出していた。これで南京錠を壊すのだろう。事前に南京錠のことを知っていたのだから、校庭を歩いていたときに見つけたのかもしれない。
 彼女が石を金属の錠にぶつけるたびに、金属が跳ねるような高音が響いた。その音は、静かな校舎に、不協和音のように反響していく。
 何度その音を聞いただろうか。立派な南京錠は、からんと小さい音を立てて床に落ちた。それとともに、美術室の扉は開かれる。夜に見るのが少し不気味な、石膏の胸像がお出迎えをし、わたしたちを美術室へと招き入れる。つづいて謎のオブジェや、絵画。これらは生徒が文化祭で作ったものらしく、「我が子を喰らうサトゥルヌス」もその中にあった。

模写:我が子を喰らうサトゥルヌス
尾辻キリエ

「これ、尾辻さんが描いたんだね」わたしは驚く。
 まさかこんなグロテスクな絵を描くような人だとは思わなかった。尾辻さんのことはまったく知らなかったわたしだけど、見た目よりももっとどす黒い感情が渦巻いているのかもしれないと(絵だけで判断はできないけど)思ってしまう。
『我が子を喰らうサトゥルヌス』は、非常に露悪趣味的な作品だった。サトゥルヌスという醜悪な老人に見える男が、自分の子を食べていて、しかもその血肉が生々しく描かれている姿といったら、描いた人の精神を疑ってしまうくらいに気持ちの悪いものだった。しかし、その気持ちの悪い中に、どことなく荘厳な雰囲気が漂っているのが、これが芸術作品だといえる証拠のようなものなのだろう。事実、わたしはこの作品から目を背けたいという気持ちと、この作品をもっと見ていたいような、相反する気持ちとなったのだ。
「なんというか、すごい絵ね」麻理花もちょうど、似たような感情をいだいたのか、コメントしづらそうにつぶやいた。
 このような作品を描く裏に、尾辻キリエはどのような感情を持っていたのだろう。その感情が爆発したから、自殺してしまったのだろうか。あるいは、この絵を見た誰かが、彼女によからぬ感情をいだいて、殺害したのだろうか。
「ちょっと、これ見て」
 わたしの思考を止めたのはクリスのひと声だった。彼女は一冊のスケッチブックを手にとって、わたしたちを手招きした。
「それは?」わたしは聞く。
「尾辻さんのスケッチブックみたい」
 クリスはそう言って、中身をわたしたちに見せた。そこには、枯れ果てた樹木や、何千もの瞳、自身の血で描いたような赤黒い夕焼け、そういった、精神の乱れを象徴するようなモチーフが描かれていて、わたしたちは戦慄する。
 なにか悪いことが起きそうな予感。
 急かされるように次のページ、次のページへと視線を進めていくと、最後のページにはメッセージが書かれていた。

 死はどこからかやってくる
 誰かが私を殺そうとしている
 私が死んだらそこには絵しか残らない

 尾辻さんが生きていたのなら、ただのポエムだと言って一笑に付すこともできるかもしれない。しかし、本当に彼女は死んでしまったのだ。しかも、それを予期するように「誰かが私を殺そうとしている」とメッセージを残している。
 予感は的中した。おそらく、尾辻キリエは殺されたのだ。誰かによって。
 クリスはおびえて、懇願するように言った。
「帰ろう……?」
 わたしたちは、その意見を飲む。これ以上、ここにいてもしかたがないじゃないか。
「最後に、ひとつだけいい?」麻理花がわたしたちを引き留める。
「早く帰ろうよ!」クリスはそれどころじゃないみたいだ。
「ちょっと、落ち着いて。ここに書いてあることを鵜呑みにするのはいいけど、それなら最後の一言だけ、確認したいの」
「最後の一言?」わたしはメッセージの最後の一行に注目する。

 わたしが死んだらそこには絵しか残らない

「わたしが死んだら絵しか残らない、って、どういうこと?」麻理花は言う。クリスは、彼女には珍しく強い口調で反論して、「その通りの意味だよ。だからもういいでしょ」
と言った。
「死んだら絵しか残らない、ってことは、絵にメッセージを残している。そういうことにならないかしら」
 麻理花のするどい意見に、わたしは感心して「手がかりね」と相づちを打つ。それが流れを決定づけたかのように、わたしと麻理花は絵を調べはじめる。
「もう付き合ってられない」
 そう言ってクリスは踵を返し、もえはいそいそと彼女についていく。おそらく、部室へと戻っていったのだろう。荷物を取りに戻ってから、すぐに帰宅するはずだ。この状況で校内にとどまるのは、たしかに危険は危険だけれど、わたしはそれ以上に、謎の解明が気になってしかたがなかった。
 昔からそうだ。わたしは変な問題に首を突っ込んでは、それを解決してきた。そのことをふと思い出す。クラスでの派閥争いや、いじめられっ子の筆箱が隠されたなんて事件も、街で会った名前も知らない女の子の迷子案内も、なんだかんだで解決することができた。だから今回も大丈夫。そんな気がしていたのだ。
「麻理花」二人になった美術室で、わたしは彼女に告げる。
「わたしね、こんな状況なのに、わくわくしてるの。おかしいかな」
「おかしくはないんじゃない。わたしも、真相が知りたい」麻理花はそう言ってはにかんだ。
 メッセージは、ちょうど描かれている途中のキャンバスの裏側にあった。尾辻さんは、鉛筆でそこに、「屋上」とだけ書いていた。とうぜん、その絵は屋上のことなんて描いていない。近所の山々を描いた風景画だ。
「屋上ね」麻理花は冷静に言った。
「行く?」
「もちろん」
 迷いはなかった。
「それじゃ、行きましょう。屋上へ」麻理花は前髪をかき上げながらそう言った。
 澄んだ麻理花の瞳が月の光を反射して、静かな教室に色を携えた。わたしと彼女のふたりだけが、絵画や石膏像とともに静寂の中に飲み込まれるように存在しているさまは、ひどく幻想的だな、なんて、そんなことを思う。

 それにしても——
 わたしの中に、なにか不思議な感覚が生まれる。うまく言い表せないような心の動きだ。まるで宇宙に生まれた、まだ発見されていない粒子のように、小さく、見つけるのが途方もないようなもの。
 わたしたちふたりだけになってしまったからだろうか。好奇心と心細さがないまぜになったような感情のような、よくわからないものが浮かんだのだ。まるで、子どもの頃に、不慣れな遠くの地まで出かけてしまったかのような、そんなせつない感情が、不思議とあらわれてくる。
「ねえ、麻理花」
 階段を昇りながら、ふと問いかける。
「どうしたの?」
「麻理花って負けず嫌いだよね」
 わたしの発言が図星だったのか、麻理花は頬を赤らめる。
「まあ、それはそうよ。わたしには背負っているものがあるもの」
「そうなんだ」
「わたしにはどうしても全国大会に行かないといけない理由があるの」
 はじめて聞く麻理花の決意。わたしは彼女の言うことに耳を傾けていた。
「わたしの父はね、むかし、バレーの選手だったの」
 麻理花は滔々と語り出す。自分の半生を洗うように、視線を落としながら、ゆっくり、言い聞かせるように。
「将来を有望されるセッターだった。能力も、人望も、申し分なかった……ねえ、平子敏一って知ってるでしょ」
 平子敏一。バレーボールをやっている人なら知らないわけがない。二十年前の日本代表チームのキャプテンだった選手だ。
「まさか、その平子さんが、麻理花のお父さんなの?」
「ええ。平子敏一と母に婚姻関係はないけどね」
 麻理花は平然と答えた。たしか、麻理花の実家はそうとうな名門だったはずだ。
「平子敏一は母と結婚するはずだったの。でも、わたしの実家に政略結婚をさせられた。それと前後するように、わたしは生まれた。一族の大スキャンダルだった。」
 麻理花はひと呼吸おいて続ける。
「それと前後して、平子敏一は交通事故にあった。失恋で心を病んでしまって、自殺しようとしたのか、それとも心が散漫になっていたのかはわからないけど、ともかく、追い打ちをかけるような事故だった。そして彼の選手生命は絶たれた」
「それで、全国大会にこだわっていたのね」
「ええ。全国大会に出場して、日本代表になる。そうすることでわたしは、父の果たせなかった夢を果たすとともに、わたしが父の子として認められることを願っている」
「夢?」
「ええ。父は世界大会を目標にしていたの」
 麻理花は誇らしげにわたしの目をじっと見つめる。たしかに、彼女のやさしそうな目元や、しなやかで力強い手足は、平子選手を彷彿とさせた。
「バレーの名門校には家の反対で入れなかったけど、ここなら全国大会もねらえる位置にあった。県下でも上位の高校だったし、それに偏差値も申し分ない。メンバーも、とくにあなたには期待をしてるのよ?」
 わたしは、突然のことにどう言っていいのかわからなかった。麻理花が人をほめたことなんて、ほとんどなかったのだから。
「ありがとう。めずらしいね、麻理花がそんなことを言うなんて」
 麻理花は照れくさそうに、ぶっきらぼうに言い捨てる。
「これも、事件を解決して、全国大会に行くためよ」
「そっか。そうだね」
 麻理花の言ったことを心に留めると、さっきまで感じていた妙な感情も薄まった。
「二人で早いとこ解決して、明日からまた練習がんばろ?」
「もちろん」
 わたしたちはお互いの顔を見て、くすくすと笑う。この緊迫した状況に、ふだんのバレー部の感じが戻ってきたような気がしたからなのだろうか。
 それから、わたしたちは示し合わせたように、また階段を昇っていく。
 四階にたどり着くと、屋上は目前だ。わたしたちは軽くうなずきあって、屋上へ延びる階段を進んでいった。屋上の鍵は、ふだんはかかっているのだけど、なぜか今日に限っては開かれていた。もしかしたら、気づいていなかっただけでここ数日は開いていたのかもしれない。尾辻キリエがメッセージを残していたように、知る人ぞ知るスポットとなっていたのかもしれなかった。
 わたしたちは、バレー部で毎日のように練習をしていたから、こういう秘密の情報には疎い。それこそ、教員のあだ名が「ゾンビ」になっているだとか、そういう教室中に蔓延しているうわさ話はすぐに回ってくる。しかし、放課後にこっそり利用されているとなれば、わたしたちにとっては興味のない情報だし、そういうものを嬉々として話す人も少ない。化学部が部室で麻雀をしているだとか、演劇部の鍵は実はいつも施錠されておらず、部員のたまり場になっているだとか、そういう情報もわたしは文化系の友人が教えてくれたため、偶然に知っていたが、ふつうなら知ることのない情報だ。
 だから、それと同じで、屋上の鍵が誰かによって開けられていたとしても、なんら不自然ではない。
 わたしがゆっくりとドアノブを回すと、金属のきしむような音とともに、外気の涼しさがあらわれる。
「屋上のどこかに、尾辻キリエのメッセージが隠されている、そう考えてもいいのかしら」
 麻理花は屋上に吹きすさぶ風で乱れた髪の毛を気にするようにしながら言った。
「たぶん間違いないと思う」
 意味ありげにキャンバスの裏に書かれていた「屋上」の文字。それは間違いなく彼女、尾辻キリエの死ぬ前に残したメッセージなのだ。でなければ、あそこにその文字が書かれていた必然性が見あたらない。
「早いとこ見つけだして、クリスやもえと合流しましょう」麻理花は彼女たちのことを心配したように言う。
「そうだね」
 クリスももえも、わたしたちに巻き込まれるようにして事件に関わったのだ。どことなく後ろめたさがある。それだったら、早いうちに合流して禍根を残さないほうがいい。
 なにか手がかりは残されていないだろうか。探していると、わたしは身長の半分ほどしかない柵(実際にはもう少し高く、一三〇センチくらいだろうか)のあたりに落書きがされているのを見つける。
 蓄光塗料で書かれたように、夜の闇の中でもはっきりと見てとれる文字列だった。
「ねえ。麻理花……これって」
「どうやら、尾辻さんのメッセージのようね」
 先刻の、キャンバスの裏に書かれていたメッセージと字体が似ていたので、麻理花はそう判断したのだろう。そこにはこのように書かれていた。

 わたしたちは終わりなき死者の列
 夜明けしか死者を救うことはできない

「麻理花、どう思う?」
「どう思う、って言われても、これじゃ抽象的すぎて何もわからないわよ」
「だよね」
 わたしが呑気に、そんなことを言った瞬間、麻理花が後ろから突き飛ばされた。低めの柵につんのめりながらも、麻理花はその場に踏みとどまる。
「誰!?」
 とっさに背後を振り返るけれど、麻理花を突き飛ばした人物はいなかった。戦慄のあまり、手に冷や汗がじわりと浮かぶ。
「大丈夫……?」
 麻理花は震える膝を押さえながら、小さくうなずいた。わたしは尾辻さんのメッセージの意味するところを、なんとなく理解する。
「終わりなき死者の列……尾辻さんのメッセージにはそう書いてあった。ということは、わたしたちもその中にいるってこと、なのかな」
「きっとそうよ」
 麻理花は毅然と答えた。そして続ける。
「もしかしたら、犯人はわたしたちが屋上に来るのを待っていたのかもしれない。スケッチブックのメッセージや、キャンバスの裏のメッセージを尾辻さんのものだと思い込ませて」
 わたしも同じことを考えていた。うなずいて、麻理花の次の言を待つ。
「ひとまず、クリスやもえに連絡しましょう。次は彼女たちが狙われるかもしれない」
 わたしが携帯電話を取り出すと、女子バレー部のみんながおそろいつけているストラップが揺れる。ユニフォームのかたちをしたもので、そこにはわたしの背番号が縫いつけられている。
 ふと、守らなくてはならないと思った。女子バレー部も、クリスも、もえも。みんな、守っていかないと。
 かけがえのない仲間の顔が浮かぶ。わたしはクリスの電話番号にコールする。呼び出し音が流れる。
 ワンコール。
 ツーコール。
 スリーコール。
 しかし、待てども待てども、焦燥感が膨らんでいくばかりで、返事はなかった。
 もしかしたら、携帯電話の充電が切れているのかもしれない。それなら、と思い、次にもえに電話をかける。
 ……だめだ。
 何度かコール音が流れたあとに、わたしは首を横に振った。
 麻理花は「そう」とだけつぶやいて、ふらふらと屋上の扉へと向かった。校舎に戻るのだ。わたしも後を追う。
 それにしても、麻理花がこんなに憔悴しているのは、はじめて見たかもしれない。彼女はいつだってしっかりしていて、ふだんならこんな姿をさらすこともないのだろう。それだけに彼女に不安を抱いてしまう。麻理花がする判断は、厳しいけれどいつだって間違ってはいなかった。だから、こういう状況でわたしがとっさの判断をすることになったらと考えると、プレッシャーに押しつぶされそうになる。
 疲れの見える麻理花の顔。地に足の着いていないような足取り。それらを見ていて、わたしはふと気づく。思えば、麻理花は隠していたけれど、はじめから判断を誤るほどに、動揺していたのかもしれない。
 彼女はバレーボールに命を懸けている。でも、だからといって尾辻さんの不審死を自分たちだけで抱え込もうとはしないはずだ。いつもの彼女なら、そういう場合には周りに迷惑をかけないよう、一人だけで問題を抱えるか、あるいは冷静に学校に報告したはずだ。
「麻理花……大丈夫?」
「ええ。ちょっと疲れてるだけだから」
 麻理花が大丈夫だと答えるのはわかっていた。それでも聞かずにはいられなかった。
「でも」
 わたしが彼女にそう言うと、麻理花は立ち止まって返す。
「心配してくれてありがとう」
「ううん。感謝したいのはこっちの方。麻理花がいなかったら、わたし、きっと取り乱してたと思うから」
「それはお互い様よ。わたしも一人だったら、どうなってたことか」
 わたしの手を取る麻理花。心なしか、彼女の瞳が潤んでいるように見える。
「行こっか」わたしは彼女の手を引っ張っていく。特に何もなければ、クリスともえは、もう帰っているだろう。マイナスの感情が顔に出てしまわないよう、前向きに考える。


 校庭の近くまで来ると、わたしは麻理花に質問した。
「このまま帰る? それとも、荷物を取りに戻る?」
 麻理花は顎に人差し指の第一関節を当てて、考えるそぶりを見せた。しかし、返事はわりとすぐだった。
「わたちたちとふたりが別れてから、もう二十分は経ってると思うし、たぶん、もう帰ってるでしょう。わたしたちも荷物は放っておいて帰ろう」
 麻理花の判断に迷いは感じられなかった。
「うん。そうしよう」
 わたしたちは学校の門まで、足早に進む。この志見崎高校は、山の上に建てられている。行きは大変だけど、帰りはふもとまで駆け下りることもできる。ふもとは人通りも多いし、街灯もたくさんある。有り体に言えば、栄えているのだ。だから、校門のところまで行けば、あとはほとんど安全だろう。
 わたしは、毎日のように登っていた坂のことを思い出しながら、そう考える。登校の際に一度登り、放課後にランニングで下って、また登る。一日に二回も登っていて、それを週五日ないし六日行っているのだ。風景も瞼の裏に焼き付いている。
「志見高ー! ファイッ! (オー!) ファイッ! (オー!)」なんてかけ声をあげながら、わたしたちが走っている光景を、脳裏に浮かべてみる。
 体を動かしているときが一番幸せな時間だ。なんたって、よけいなことを考える必要がない。たとえば、勉強のこと。志見崎高校の成果主義はもちろん勉学にも行き届いている。成績が悪い生徒は当然、部活動でよほどの成績を収めない限りは、部活動に出ることを許されなくなる。だから、わたしたちは寝るときと練習しているとき、それとたまの休憩以外は、だいたい学校から出される課題や成績に悩まされることになる。とくにわたしのように、成績優秀者というわけではない一般生徒からするとなおさらだ。
 それに、人間関係に煩わされることもある。
 恋愛とか。
 このあたりは内緒にしておくけど、クリスのように彼氏がいたり、麻理花のように許嫁がいるといった悩みもあるようで、わたしにもそういったことのひとつやふたつくらいある。
 尾辻さんは、何かに悩んでいたのだろうか。
 わたしは彼女のことを知らない。きっとこのまま帰ってしまうと、これから知り得ることもないだろう。なんとなく、そんな予感がした。
 だけど、そもそもわからなくたっていいのだ。
 わたしには守らなければならないコミュニティや、人間関係がある。
 いちいち死んだ人にかまってなどいられない。むしろ迷惑かもしれない。
 だから、このままでいい。
 そう思いながらも、後ろ髪を引かれるような思いも同居する。彼女は何を伝えようとしていたのか? 彼女はどうして殺されてしまったのか?
 考え出すと止まらなくなる。意識がぐるぐると回って、しだいに考えがまとまらなくなっていく。この感情はいったい?
「どうしたの?」麻理花は不安げにわたしの顔をのぞきこむ。
 それにハッとして、わたしは意を決して、麻理花に伝える。
「麻理花」
「なに?」
「やっぱり、先に行ってて」
 それを聞いたとたん、麻理花の顔がこわばる。
「ここは危ないのよ? わかってるの!?」
 麻理花は叱るように語調を強くする。わたしは気圧されそうになりながらも、平静を装う。
「わかってるよ」
「わかってるなら、どうして!」
「わかってるけど、尾辻さんのこと、まだぜんぜんわかってないから。知りたいんだ、わたし」
 麻理花は、返事を考えるように、じっと黙りこむ。それから数秒経って、しょうがないわね、という風にため息をつく。
「あなたは昔からそうね」
「昔から……?」
「あなたは覚えてないかもしれないけどね。昔、あなたに会った女の子がいたの。その子は両親とはぐれて迷子になっていた。それをあなたは、好奇心からか首を突っ込んで、一日中探し回った」
 そうだ。
 わたしは麻理花の顔に見覚えがある。
「あげく今日知ったばかりの尾辻さんのことにもまた首を突っ込もうとするのね」
「……麻理花だったんだ」
「何のこと?」
「ううん。なんでもない」
 麻理花は少しだけ口角を上げて、それから踵を返す。
「それじゃ、部室に戻りましょうか。尾辻さんのことを考えるのは、それからでも遅くないでしょう」
 わたしたちは結局、振り出しに戻ったのだ。尾辻さんが残したと思われるメッセージは、彼女でない誰かが、わたしたちをおびき寄せるために書いたものの可能性が高い。あるいは、尾辻さんのメッセージを利用して、わたしたちを屋上で待っていたのか。
 わたしは探偵ではない。探偵ごっこをしているただの女子高生だ。だから、謎の解明なんてとうていできないかもしれない。
 でも、女子高生のわたしだからこそ、彼女にしてあげられることはきっとあるはずだ。
 わたしたちは女子バレー部へと戻りながら、そう考えていた。
 ドアを開けると、そこに彼女の死体はなかった。

「これって……」
 尾辻さんの死体が消えた。そのことはわたしたちに少なからず動揺をもたらした。
 きっと誰かが意図的にそれをやったのだ。クリスも、もえもそのことに気づかなかったのだろうか。あるいは、彼女たちが帰ったあとに、死体は動かされたのか。
「ねえ」
 麻理花は困ったような表情をつくっていた。
「クリスやもえは大丈夫かな」
 わたしは、うまく答えられなかった。「わからない」と言おうか迷って、それから無言をつらぬいた。言わなくても感情は伝わる。
「ごめんなさい」麻理花は申し訳なさそうにそう言った。
 わたしは、それだけのことばで十分だった。麻理花はきっと、自分の判断にたいして、周りを巻き込んでしまったことに対して、「ごめん」と思ったのだろう。責任感のある彼女のことだ。いつかはその言葉が出てくると思った。
「気にしないで」
「本当にごめんなさい」
「いいって。それより……死体がなくなったことについてだけど」
 わたしは死体がなくなったことについて考えをまとめて、彼女にいくつかの答えを提示してみる。
「まず考えられるのは、死体に証拠が残っていたからどこかに隠したっていう可能性。たとえば、尾辻さんの首を絞めたロープが特徴的だったのかもしれない」
 一見、ふつうのロープで絞められたように見えた彼女の首には、なにか証拠が残されていたのかもしれない。ほかにも、身体や衣服にはたくさんの証拠の残る余地がある。わたしは続ける。
「次に、愉快犯として行った可能性。これは、わかりやすいかもしれない。わたしたちの反応を見たいがために、死体を動かした」
 そこで麻理花が口を挟む。
「でも、それだったら犯人はわたしたちが見えるところにいるってことになるでしょ。その可能性はないんじゃない?」
「そうだね。その可能性はほとんどないと言ってもいい。小型カメラとかが仕掛けられてることがあるかもしれないから、可能性はゼロではないと思うけど」
 麻理花は納得したように二、三度うなずいた。
「それじゃ、次に進めるね。死体を隠したい、という目的がいままでの考えの根底にあったと思うけど、最後の可能性は別のところに考えがあるの。最後のひとつの可能性は、クリスたちがこの死体を隠した、ってもの」
「どういうこと?」
 麻理花は、仲間を疑われたのが気に障ったのか、それとも単純に驚いたのか、語調を強めて反応した。わたしは細かく説明を加えていく。
「わたしたちをかばったのかもしれないってこと。バレー部に死体がなければ、この問題はわたしたちにはまったく関係がなくなる。少し重いかもしれないけど、二人がかりならできないこともない」
「それなら、わたしたち四人でそうすればよかったんじゃない?」
「それだと、わたちたちにも迷惑がかかる、そう思ったんだと思う。麻理花だって、同じ状況なら自分だけでどうにかしようと考えたでしょ?」
「それは……そうかもしれない」
 麻理花の声が小さくなる。図星だったのか。
「二人で帰ったことにすれば、わたしたちにも迷惑がかからないって考えたんだと思う」
 それに、公正を重んじる麻理花の前では言えないけれど、クリスも、もえも、わたしたちのほうが試合で戦力になると考えているだろう。クリスは実力はあるけれど、いざというときに竦んでしまうし、もえはミスすることが多い。わたしたちが試合に出られなくなるくらいならと、そう考えたのかもしれない。
 もっとも、この話はすべて推測にすぎない。だから、犯人にはもっと違った考えがあったのかもしれないし、偶然によって死体が動いたのかもしれない(可能性は限りなく低いけど)。となると、やはり実際に推測の域を出るための証拠が必要である……そんな考えをめぐらせていると、麻理花もそう思っていたのか、わたしに提案をはじめる。
「やっぱり、もう一度屋上に戻ってみない?」
「屋上?」
 まさか、麻理花からその提案が出るなんて思ってもみなかった。自分が突き落とされそうになった場所なのに。
 しかし、麻理花の目は真剣そのものだった。
「わたしたちはまだ、屋上に残されたメッセージを解読していない、そうでしょう?」
 麻理花はわたしのことをじっと見つめる。
「それに、ここにはもう証拠は残っているとは考えにくいし……もし、推測が合っているのなら、死体を隠すほど犯人は注意を払っているんだと思う」
 だから、部室にはもう証拠は残っていない。そう麻理花は断定した。
 となると、もう残っている場所は屋上か美術室しかないのだ。
 もう一回、校舎の反対側に向かうのは、かなりの手間だけれどしかたがない。
「わかった。行こう」
 わたしは麻理花に応えて、もう一度部室から出る。屋上のメッセージを解読できたら、何かがわかるのだろうか。きっと、何もわからないのだと思う。でも、行ってみないことにはわからないし、なにより麻理花の提案だ。
 校庭から俯瞰するように校舎の明かりを確認すると、この学校にはもうほとんど誰も残っていないのだということがわかる。ふたつの部屋の明かりだけが煌々と光っており、そのふたつの教室は進路指導室と職員室である。
 毎日のように、残業で学校にいなければならない先生たちには同情を禁じ得ない。とはいえ、見つかったらやっかいなことになってしまうし、先生たちが残っていなければ学校に取り付けられている警報システムが作動してしまうので、感謝しつつも見つからないように、闇に紛れて移動する。
 さっき、一度廊下を歩いてみてわかったことなのだけれど、校舎の中だと見通しがあまりよくない。そこで、今度は、距離的には遠くなるけれどある程度視界の利く、校庭側のルートを使うことにした。校庭を外から回り込むようにして、別の玄関から校舎に入るのだ。これなら、もし途中で犯人と出くわしてしまっても、一本道ではなくなるので、逃げる方向は確保できる。すべて麻理花の提案だった。
「よし、っと」
 まずは美術室を通過する。その際に、室内を見渡してみて、とくに変わったところはないことに安堵する。もし、犯人が証拠を消して回っているのなら、今から屋上に向かってもメッセージは消されているかもしれない。もちろん、蓄光塗料だったので上から塗りつぶすことか、除光液を使うくらいしかすぐに消せる方法は考えつかないのだけど、それでも消えてしまうには惜しい証拠だ。

 わたしたちが屋上に戻ったころには、時刻は二十一時近くとなっていた。屋上から校庭を覗いてみると、ちらほらと車で帰宅する先生たちの姿が見受けられた。警備員が校舎の見回りをはじめるのもそろそろで、屋上のメッセージの件が終わったら、潮時だなと思った。帰らないと、両親も心配するだろうし、麻理花の家も帰りの遅い麻里花のことを不安に思っているかもしれない。

 わたしたちは終わりなき死者の列
 夜明けしか死者を救うことはできない

 尾辻さんの残したメッセージにはこう書かれていた。字状態は変わってなく、証拠を隠滅するかもしれないといった不安は杞憂に終わった。
 しかし、これが何を意味しているのかは、お互いに何も意見が出なかったことからも明らかだった。
 わからないのだ。まったく。
「わたしたちは死者の列に並んでいる。それは当然のことよね?」
 長い沈黙ののちに口火を切ったのは麻理花だった。彼女は、ゆっくりと、言葉を選ぶように喋った。人生は死者の列に並ぶようなものだ。そう麻理花は言う。
「でも、死者というのは列になって待つものじゃない。ふつうは、前にいる人から順番に死ぬなんてことはない」
 麻理花は自分で立てた仮説を自分で否定して、さらに続ける。
「それに、夜明けが死者を救う、というところも不可解ね。そもそも、救う、ってどういうことなのか」
 まったく、わからないことばかりね。
 麻理花はそう締めて、また思考の沼に入っていく。わたしは、このメッセージに意味を見つけることはできないと思う。考えるだけ無駄なのだ。メッセージを書いた本人に聞いてみないと、その真意は計りかねる。
 しかし、あえてその真意を神から聞いてしまったとしたらどうだろう。わたしには、天啓というか、なんというか——いつものわたしには考えつかないいだろう考えが浮かんでいる。まさに、事件の真相に直面した名探偵のような、そんな思考がわたしには生まれている。生まれていた、と過去形にして表現するのが正しいかもしれない。
 わたしはすでに、真相に辿り着いているのだ。
 麻理花にはっきりと言わなくては。そう思いながらも、わたしはそのことを告げるのをためらっていた。麻理花がそのことを聞いてしまったなら、彼女は驚くだろう。いや、もしかしたら驚く以上に、悲しむかもしれない。だから言えなかった。
「麻理花——」
 意を決して、わたしは彼女に大切なことを言おうとする。言おうとして、でも、言ってしまったあとのことを考えて、口がうまく動かなくなる。自然と麻理花の手を取って、彼女の瞳をじっと見つめる。
「ねえ、麻里花——」
 もう一度、彼女の名前を呼ぶ。
 あたりは漆黒。まるで世界には私たちふたりだけしか存在していないかのように、ほかの生命は静かだった。麻理花の唇が、どうしたの? という形に動く。わたしにはそれは聞こえない。心音が高鳴っているのだけが実感としてわかった。
 しかし、その瞬間は長くは続かなかった。
 ふいに扉が開く。
「あなたたち、ここで何をしているの」
 身構えたわたしの前に現れたのは、ほかの誰でもない「ゾンビ」だった。彼女のワインレッドのスーツが、わたしたちだけの世界を破壊し、血に染めた。
「それは、その……」
 怒髪天を突くような恐ろしい表情の「ゾンビ」を前にして、わたしは困ったように麻理花を見た。麻理花はそれを察してか、はたまた事前に言うことを決めていたのか、屹立したまま返事をする。
「わたしたち、その……忘れ物をしちゃって」
「こんなところに?」
「ゾンビ」こと湯浅先生の眼光が鋭くなる。彼女のかけている眼鏡のフレームが光を反射してきらりと光った。あまり趣味がいいとはいえない、小さな宝石入りのフレームは、成金趣味のようでどことなく気分が悪い。
「はい。居残り練習をしていたら、バレーボールが高く上がっちゃって」
 あまりに荒唐無稽な話だ。だいたい、バレーボールがそんなに高く上がるなんてことは、意図的にやらないかぎりはありえない。
「あなた、五組の瀬尾さんよね?」
「ゾンビ」が麻理花を品定めするように、上から下まで首を動かして見た。
「はい。瀬尾麻理花です」
 それを聞いて、「ゾンビ」は怒っていた表情を幾分かゆるめる。
「瀬尾さんと、そこのあなた」彼女はわたしたちを指さして言う。「居残り練習もほどほどにしなさい。ほら、階段を下りる」
「は、はい……」
 拍子抜けだった。まさか「ゾンビ」がわたしたちにこんなに甘いなんて。マックスコーヒーも驚きの甘さだ。麻理花がひそひそ声で「やったね」と言った。
 そういえば、「ゾンビ」は成績優秀者には甘いのだった。麻理花は先生に気に入られていたから、その恩恵を受けられたのだろう。わたしは胸をなでおろす。
「それにしても、どうしてわたしたちのことがわかったんです?」
 わたしたちが階段を下りている最中、麻理花は気になったのか「ゾンビ」に質問した。反省の色が見られない、と言われて怒られるかもしれないな、なんて考えていたけれど、「ゾンビ」はそういうところにはあまり怒らないらしい。もしかすると麻理花だから許しているだけなのかもしれないけど、そんなことを考えてもしょうがない。
「帰ろうと思ったら、ちょうど校舎に入っていく生徒を見つけたから注意しようと思ったのよ。今回はバレー部や麻理花さんの成績に免じて許してあげますけど、またこんなことをやったらどうなるかわかってるわね?」
 わたしたちふたりは、同時に「はい」と返事した。さっきまでの緊張や勇ましさはどこかへ吹き飛んでしまったように、わたしたちはいつもどおりの自分へと戻った。先生と一緒にいれば安全だろうし、それに、もう尾辻さんの死体は女子バレー部の部室にはない。そう考えると、安堵してするほかないから、当然のことなのだ。
 わたしたちは、そのまま先生に見送ってもらい(というか監視されながら)、高くそびえる校門まで戻ってきた。途中、女子バレー部に荷物を取りに戻ったけれど、とくに何の変哲もない、いつもの部室だった。まさかここに死体があったなんて、誰も思わないだろう。
「あ、いたいた」
 校門を抜けた向こうには、死んだはずの尾辻キリエがいた。さっきとはうってかわって、肌に色味があって、生きているかのような姿がそこにはあった。というより、生きていたのだろう。
「女子バレー部の方ですよね」
 尾辻さんは申し訳なさそうに、両の手のひらを合わせた。
「ごめんなさい。わたし、あそこで撮影させてもらってたんです」
「どういうこと?」
 麻理花はいまいちつかめないと言った感じに尋ねる。
「三年生の花島さんにお願いして、部活が終わってから少しの間、死化粧をして撮影させてもらうつもりだったんです」
 あっけない幕引きだった。麻理花は拍子抜けしたように、「ああ、そうだったんだ」と力なくつぶやいた。
「ごめんなさい。連絡がうまく行ってなかったみたいで……それで、カメラマンがちょうど席を外していたときに、四人がきてしまって、パニックになっちゃったみたいで弁解する間もなく……本当にごめんなさい」
「いえ、いいのよ」
 麻理花は平静を装って、そう返す。
「ほかの二人にはもう伝えたんですけど、なかなか二人が出てこなかったので」
 尾辻さんは平謝りだ。見かねてわたしも助け船を出す。
「尾辻さん、もういいよ。わざわざありがとうね」
 それを聞いて尾辻さんは大きな息をついた。
「それじゃ、遅いのでわたしはこれで帰らせてもらいますね。お騒がせしてすみません」
 尾辻さんは「では」と言うと、そのまま坂を駆け下りてしまった。
 まるで嵐が過ぎ去ったかのように、わたしたちは何も言えなかった。


「そういえば、屋上で言おうとしてたことって、なんだったの?」
 帰り道の途中、麻理花はふと思い出したように、そう尋ねる。わたしは、照れを隠しながら、「なんでもないよ」と頭を掻いた。
「結局、あれはなんでもなかったからね」麻理花は自分で納得したように言った。たしかに、屋上のメッセージに関する答えは、尾辻さんがネタばらしをしてしまったあとではもはや必要ないだろう。
 あのとき、わたしは麻理花に告白しようとしていたのだ。でもできなかった。きっと、屋上で言えなかった想いは、これからもずっと、わたしの中に秘め続けられるのだろう。
 以前も同じようなことがあって、それは小学校の卒業式のことだった。わたしは、好意を抱いていた女の子を、卒業式のあとにある女の子を校舎裏に呼び出したのだ。「大事な話があるの」と。しかし、彼女に対する想いは結局伝えられなかった。恥ずかしさと、失敗したときに湧き上がる軽蔑の感情が、怖くてしかたがなかった。だから、何も言えなかった。言葉を濁すようにして言った「これからも、ずっと友達でいようね」という、そのメッセージだけが、わたしの心の中に沈殿するように残っていて、ふと、昔を振り返ったときにわたしを傷つけたのだ。もしも、あのとき、彼女に告白していたら——もしかしたらずっと、違った人生となっていたのかもしれない。
 尾辻さん。
 あなたのことだよ。

「人を食ったような話だね」
 事件の十日前、尾辻キリエはわたしにそう言った。まだ日も昇ってない早朝のことだった。
「でも、あなたにしかお願いできないの」
 わたしは、小学校ぶりに会った尾辻さんに懇願する。まさか同じ高校に通うことになるとは思っていなかったけれど、入学式に少し会話したくらいで、ほとんど会話はできなかった。尾辻さんは、わたしの突飛な、そして久しぶりの頼みに困った表情をしながらも「しょうがないなあ」と返した。
「昔の借りがあるからね」
「借り?」
「おぼえてないの? ほら、小学生のころに一緒に筆箱を探してもらった……」
「ああ、そのことね。まさか、貸しを作ったなんて思ってなかったから」
「あなたのそういうところには好感が持てるけど、いたずらをするのはほどほどにしなさいよ」
「わかってるよ」
「本当に?」
「わかってるって」
 秋の朝の校舎には、おそらくわたしたちしかいないだろう。わたしたちは六時に開けられる校門の前で、話を進めていた。しんと静まり返った空気に声がこだますると、わたしは自分の発言に気を付けようとさらに小声になる。わたしはその日、尾辻さんに頼みごとをしていたのだ。彼女に、死体になってほしいと。
「でも、死体に扮してどうするっていうの? 騒がれるのだけはいやだからね」
「わたしのチームメイトを驚かせてほしい、それだけのことよ。わたしたちの部室で十分くらいじっとしてもらったら、あとはわたしが部室から出るように促すから、それを見計らって部室から出て行ってほしいの」
「まあ、いいけどさ。どうしてわたしに?」
「尾辻さん、たしかメイクがうまかったと思うから。文化祭のときに仮装してたよね?」
 そうだ。美術部は文化祭のとき、展示と仮装を行っていた。そのときにわたしは、彼女の化粧した姿に気づかなかったのだ。化粧映えする顔つきというのもあったけれど、彼女のその技術なら、死化粧も可能だと考えた。それに、絞殺されたという体で、首に縄の絞め痕を描いてもらうのも、彼女でないと頼めなかっただろう。
「でも、どうしてチームメイトを驚かせる必要があるのよ」
 尾辻さんは不思議そうにそう言った。風で彼女のウエーブのかかった髪がなびく。
「それは内緒」
 わたしはいたずらっぽくそう言ってごまかした。こればかりは言うわけにはいかない。重大な秘密だからだ。
「あまり詮索はしないでおくけど……バレても文句は言わないでね」
「それは大丈夫。あ、でもわたしが指示したってことは内緒ね」
「どうして?」
 怪訝な顔をする尾辻さん。わたしはどう返していいものか迷う。考えたあげく、わたしはこう言ってぼかしたのだ。
「人間関係のもつれ、ってやつ?」
 それを聞いた尾辻さんは、なんというか、申し訳なさそうな神妙な顔つきで、「あなたも大変ね」とだけ言った。その顔つきが昔は好きで好きでたまらなかったのだけど、今ではなんとも思わなかったことに、少し悲しみを覚える。わたしは五年という、わたしにとっては長い年月を経て、尾辻さんのような自分の世界を確固として持っている人ではなく、むしろ気丈に見えて不安定な、瀬尾麻理花のほうが気にかかるようになっていた。わたしは弱い人間や、困っている人におせっかいを焼く性分だから、よけいにそう思う。
 尾辻さんは強い人間だ。彼女はクラスで孤立していても、それを苦にしなかった。小学校のとき、彼女はよく教科書やかばんを隠されたり、悪い噂をたてられたりしていた。わたしはそういう人を見ると放っておけない。いつしか、毎朝、家まで彼女を迎えに行って、帰りは一緒に下校する仲となっていた。はじめはわたしが勝手にそういうことをやって、彼女から拒絶されたりもしたけれど、根気よく続けていくうちに、それが自然となってしまった。尾辻さんのことも、昔はキリエちゃん、って呼んでいた記憶がある。それもいい思い出だ。
 中学校でわたしと彼女は違う中学校に行くことになり、遊ぶ回数も自然と減っていった。そのとき、彼女がわたしをもはや必要としなくなっていたことに気がついた。街中で彼女がほかの女の子と歩いているのを見かけたとき、にわかに信じがたいくらいのショックを受けた。
 知りたくなかったのに、その事実はわたしの心の中をどんどんと蝕んでいく。まるで地獄のような毎日だった。
 そのころ、わたしは友達に誘われて入ったバレー部で、身長の高さもあって、そこそこの活躍をしていた。しかし、尾辻さんが友達と歩いている光景は、その間もずっと取り払われないままだったのだ。
 尾辻さんがわたしを必要とするのではなく、わたしが尾辻さんを必要としていたんだ、と、そのころ気づいた。
 わたしも必要とされる人間になりたい。
 そうすれば、尾辻さんや、これから好きになるかもしれない誰かと、ずっと一緒にいることができる。そう思っていた。
 必要とされる人間とは、どういう人なのだろうか。考えるうちに、当時、志見崎高校のキャプテンだった五条先輩に行き着いた。弱小だった女子バレー部を、一気に強豪校にまで引っ張りあげるほどの力と人望を兼ね備えた存在、それが五条先輩だった。わたしは彼女の試合を見に行って、そして一目惚れした。
 まるで教則本に載っているような綺麗なフォームから繰り出される強力なスパイクは、わたしの心を突き刺したのだ。憧れを抱くとともに、わたしは彼女のようにはなれないと悟った。
 それでも、志見崎高校に行きたい。志見崎でバレーボールをやりたいと、心から強く思うきっかけとなった。麻理花と出会ったのは、その二年後だった。
 麻理花は、わたしの好きだった五条先輩をそっくりそのまま鏡に映したような性格で、責任感が強く、人望も、能力も申し分ない人物だった。ただひとつだけ違うのは、麻理花がバレーに関して厳しいところだ。でも、それは麻里花のよいところであって、その不器用なところも、わたしには愛おしく思えた。
 わたしは麻理花と出会ったとき、彼女に必要とされたいと、そう思った。でも、彼女は完璧な人間で、わたしたちにそれほど弱みを見せることもなかった。しかし、わたしには、麻理花はきっとつらいと思っているというのが、一緒に行動を続けるうちに自然とわかっていた。
 わたしは必要とされたいのに!
 必要とされなかったからこそ、キリエちゃんとの関係もなくなってしまったのに。
 麻理花。
 わたしはあなたのことが好きなんだ。
 だから、あなたをちょっとだけ怖がらせるくらい、してもいいよね?
 わたしは心の中に生じた黒い感情を、少しずつ堆積させていった。幾度となく、彼女の持ち物を盗んだり、靴箱に虫の入ったラブレターを入れたりして、彼女の反応を窺った。
 でも、どれもこれも、あまり成果はなかった。
 慣れすぎているのだ。嫉妬や羨望から自分の身を守ることに。だから彼女は、どんなときも弱い感情を見せたりはしない。
 黒い感情はどんどん大きくなっていく。
 わたしはついに、殺人現場を作ることにした。尾辻さんに頼んだのが、それだった。
 効果は絶大だった。麻理花は、平静を装いながらも、隠しきれない。不安に飲み込まれて、自分の弱みをさらけ出していく。わたしはその事実に、感情を高ぶらせる。
 屋上にふたりでいたときも、黒い感情はわたしにささやきかけた。気づけば、彼女を後ろから突き飛ばしていた。
 あのときの感触は、二度と忘れることはないだろう。
 わたしはついに麻理花に手をかけようとしたのだ。もちろん、本当に殺すつもりはなかった。たしか、川端康成は、自分の妻を走る列車から突き落とそうとしたという逸話があったはずだ。これと同じで、わたしは彼女を愛していたからこそ、彼女を突き飛ばしたのだ。
 もしかしたら、そのことを麻理花に感づかれてしまったかもしれない。一番の難関だった、クリスともえを引きはがす言動は、彼女たちの自発的な離散によってしなくて済んだ(もしその通りにならなかったら、二人組を作るように提案した)し、偽装事件の展開はほとんど計画通りに進んだ。謎があるということにして、部室を出て、そのあと美術室へ向かい、屋上へ行く。この際に、屋上をわたしと麻理花が、美術室をクリスともえが担当して調査するという計画だった。ことは予想以上にうまく運び、麻理花が自分から美術室に行くことを提案してくれたり、自然と二手に別れたりした。しかし、わたしはふたつだけ、ミスを冒した。
 ひとつは、さっき述べたように、麻理花を自分の手で突き落とそうとしてしまったこと。尾辻さんの自白によって、すべて事故で解決したはずの事件に、そうでない要素を入れる結果となってしまった。勘のいい麻理花ならきっと、いつかそのことに気がつくだろう。
 わたしが突き飛ばしたという事実に麻理花が気づいたとき、彼女はいったいどういった行動を取るのだろう。チームの和を取るか、それとも自分の安全を取るかはわからない。これはひとつの大きなミスだった。
 おかげで、予定になかったけれど、クリスともえに電話をかけることとなってしまった。もちろん、電話をかけるふりをしたことで、それは切り抜けられた。しかし、予想以上に麻理花に不安を与えてしまい、彼女が帰ると言い出さないか心配だった。もし彼女がわき目も振らずに帰ってしまったら、事件はもっと大事になっていたかもしれない。
 ふたつ目のミスは、麻理花に告白できなかったこと。屋上のメッセージなんてのは二の次で、本当はわたしは、おびえる麻理花に必要とされる人物として、彼女の目の前に現れたかったのだ。彼女を不安にさせることの、最終的な目標はそこにあった。
 こんなことを言うと、頭がおかしいと思われるかな?
 でも、わたしは麻理花が好きだったから、しかたがなかったんだ。もうそこまで追いつめられていた。
 でも、最後の最後で横槍が入った。「ゾンビ」こと湯浅先生の登場だ。
 おかげで、告白するタイミングも見つからないままに、事件は終わりを迎えてしまった。

 やり場のない想いを、わたしはどうしたらいいだろう?
 事件の翌日、わたしは朝早くに誰もいない教室へと向かった。五時二十分に学校に着いたわたしに、門衛さんが驚きながらも、対応してくれた。
 いま、わたしがいるのは一年五組の教室だ。整然と並べられた机や椅子の中で、わたしは夜明けの太陽によってひときわ輝きを放っているように見える机の前に立った。
 そこは麻理花の机だ。
 鼻を近づけてみると、ほのかに麻理花のにおいがするような気がした。きっと、そんなことないはずなのに、わたしの脳は、五感は、麻理花の持つ魔力によって変えられてしまったのだろう。
 それから、麻理花の椅子に座る。
 麻理花がいつも腰を落ち着かせている椅子に、わたしの身体が体重をあずけている。麻理花の身体と、間接的にふれあっている。そう思うと、鼓動が早くなり、じっとしていられなくなる。
 わたしは、スカートの中に手を入れる。これも麻理花の着ている制服と同じものだ。麻理花とおそろいの下着もこないだ買ってきた。麻理花はそのことを知らないだろう。
 わたしの周りには、いつも麻理花がある。麻理花のものと同じ文房具、麻理花が誕生日にくれた髪留め、麻理花が使っていたたくさんのもの、麻理花が見ている風景、麻理花の住む街。ほかにも、もっとたくさんのものが、麻理花とともに息づいている。
 だけど、どうしてこれだけのものが麻理花にまつわっているのに、肝心の麻理花の心だけはここにないのだろう?
 思わず、手に力が入る。わたしは吐息をもらす。
 麻理花。
 ねえ麻理花。答えてよ。
 あなたは今、どこにいるの?
 あなたの心は誰のものなの?
 問いかけるたびに、わたしの身体を快感が走った。言葉にならないほどの快感は、まるで電流か燃えさかる火に包まれているかのように、わたしの身体をわたしじゃなくしていく。
 できることなら、わたしは麻理花になりたい。麻理花の心がわたしのところにないなら、わたしが麻理花でありたい。
 でも、わたしはわたしでしかいられない。
 わたしを、「麻理花の」わたしにしてほしい。
 下着が濡れているのもおかまいなしに、わたしはその手を、その指を動かした。
 麻理花の手。
 麻理花の手が、わたしを慰めているんだ!
 わたしは絶頂を迎える。しかし、それでも麻理花への渇望は止むことはない。わたしは時計を見て、まだたっぷりと時間があることを確認すると、麻理花とおそろいの下着を脱いだ。
 夜が明けてすぐのことだ。まだたっぷりと時間はある。この教室に人が来るのも、麻理花と一緒に過ごせるのも、まだまだ、ずっと。
 だから大丈夫。
 自分にそういい聞かせる。麻理花はまだ、どこにも行っていない。だから、わたしたちの関係はまた進められる。
 そう確信すると、わたしはまた、燃え盛る自分の火を鎮めようとして、とめどなく愛液を流し続けるのだった。