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少女サナトリウム

シナリオライター木野誠太郎(きのせい)があの事件についてついに語ります 連絡先⇒kinoseitaro@gmail.com

太陽フレアの彼女

2012年冬に同人誌『イルミナシオン』に掲載した作品『太陽フレアの彼女』をwebに掲載します。

2014年5月5日に行われる文学フリマにて、『しあわせはっぴーにゃんこ』という合同誌を頒布する予定ですので、この作品を読んで興味を持たれた方は、ぜひ。

以下本編

 

 

 

太陽フレアの彼女

 

 床にこぼれたお弁当の中身を、必死でなめていた。

 本当はこんなことやりたくなかった。

 しかし、拒否しようとしても、後頭部は押さえつけられていたし、そもそも拒否権なんてないのだ。ぼくがここで拒否しようものなら、彼らはそれを喜んで、さらに苛烈な行為をぼくにさせようとするだろう。ほこりのついたほうれん草を咀嚼すると、吐き気が込み上げてきてむせる。それを見て彼らは笑う。ぼくは必死にそれを呑みこむと、次は卵焼きだ。押さえつけられた頭を少し動かして、汚れた卵焼きを食んだ。

「最近つまんねーな」

彼らの中のひとりが言った。ぼくが抵抗しないのが面白くないのなら、いっそのこといじめをやめてくれと思いながら、静かに彼らの話を聞いていた。これ以上過酷になってしまうのは、恐るべきことだ。額から、一筋の汗が流れる。

「そうだなあ」彼らの中で、一番発言力のある長身は考えるそぶりを見せて、それから「身体に怪我させると面白いんじゃないか?」と言う。それに賛成するように、彼らはざわめきたつ。

「いったいどうやるんだ?」

「殴ったり蹴ったりはもうやったしな」

「彫刻刀とかどうよ」

「それだとすぐ終わるだろ。もっとじっくり痛めつけないと」

好き好きに彼らは言った。勝手なものだ。それを静めるかのように、長身は言った。

「これを使うんだ」

取り出したのはシャープペンシルの芯だった。とたんに、身体中の毛が逆立つような寒気を感じる。いまから彼が何をはじめるのか、わかってしまったからだ。

 長身は実演するように、ぼくの制服を脱がした。教室で見て見ぬ振りをしようとしていたクラスの人々が、関心を向けたり、目を背けようとしているのを視野の端に捉えた。

 シャープペンシルをぼくの背中に当てると、長身はそれをぼくの背中に突き刺した。

 瞬間、痛みが身体じゅうを走った。

 声にならない悲鳴。

 ぼくはあまりの衝撃に、身をよじることしかできなかった。

「次は俺の番な」

長身を押しのけて、意地の悪そうな顔をしたやつがぼくの身体に二回目の苦痛を与えた。「次は」「次は」「次は」を繰り返すと、二周目がはじまる。そのうち順番などとうに関係がなくなり、おのおのが何度も何度も、まるで積もった雪に足跡を付けていくかのように、黒鉛のないところに痕をつけようとしていった。 

 おそらく、長身は鉛筆の刺し傷の痕が長く残ることを知っていて、このような仕打ちを考えたのだろう。

 いつしかぼくは泣いていた。ただただみじめだった。いっそ死んでしまおうか。そんなことまで考えたけれど、実際にやってみるほどの勇気はないのだろうな、そんな気がした。

 午後の授業を告げるチャイムが鳴って、ようやくぼくは解放された。すぐに、体調が悪いことを授業担当の先生に告げ、保健室に行くと早退させてもらった。

 保健室の先生は、いい先生だけど、ぼくがよく保健室に来る原因がいじめであることを知らない。

 知らない振りをしているんじゃないか。

 これだけ傷を作っているのに、きっと関わらないようにして、火の粉が降りかかってこないようにしているのだろう。ぼくが「帰りたい」と言うと帰らせてくれるので、最悪の先生というわけではなかったけど、見過ごしたままでいてほしくはなかった。

 

 

 翌朝、登校中のぼくはいじめグループのひとりと出会った。冬の日のことで、空気は澄んだように冷たかった。この透明感のある空気は、嫌いではなかった。そんなさなかに彼と出会ったものだから、ぼくは飛び出してきた自動車に竦んでしまったように動けなくなっていた。

「昨日は早退したよな」

彼はそう言って、ぼくを威嚇する。

「おかげで放課後の日課もできなかったし、今日は覚悟しとけよ」

にたりと彼は笑って、ぼくから距離を置いた。ぼくと一緒に行動していたと思われたくないのだろう。今日行われるだろう仕打ちを考えると、ぞっとして、帰りたくなる。しかし、帰ってしまえば、いじめ行為はさらにエスカレートしてしまうかもしれない。そうなると、家族にも迷惑がかかるのだ。それだけは避けたい。

 ギリギリの時間に教室に着くと、クラスじゅうがどよめいていた。

 転校生。

 二月のこの時期に、転校生が来るというのだ。珍しいことで、クラスのみんなも色めきたっている。

 どんな人が来るのだろう——ぼくもそう思った。ぼくと対極の位置にある、いじめグループの面々も、まったく同じことを考えているだろう。この瞬間だけは、クラスが一丸となっていたのではないだろうか。

 やがて担任が来て、そのうしろについてくるように、ひとりの少女が現れた。彼女が歩くたびに、肩の辺りまである黒髪が揺れて、うなじが見えたり隠れたりを繰り返した。

「篠原さん。自己紹介して」担任は言う。

「はい」澄んだ声で、篠原と呼ばれた少女はお辞儀をした。

「篠原さいかです。どうぞよろしくお願いします」

一目見て、礼儀正しそうな子だとわかる。背筋はまっすぐ伸びていて、お辞儀の角度もちゃんと意識されたものだ。それに瞳。瞳は太陽フレアのごとくきらめいていて、そこには何の邪念も感じられなかった。

 教室から拍手が起こり、彼女は席に着く。ぼくから少し離れたところだったけれど、ぼくの前方の席に彼女は座ったので、授業中、その後姿を確認することができた。

 あの子は、いじめなんて陰湿なものを、見たこともなければ聞いたこともないんだろうな。

 篠原さんの立ち居振る舞いを見ていると、なんだかそんな気がして、みじめな気分になった。

 昼休みになると、またぼくの日課である『いじめの時間』がやってくる。鬱々としてきた気分を抑えながらも、ぼくは彼らの行為がはじまるのを、身を小さくして待っていた。しかし、そのときはやってこなかった。いじめグループは転校生の素性を知りたいがために、篠原さんと話していたのだ。篠原さんは誰とでも分け隔てなく接していたので、もしかしたらぼくとも話してくれるのでは、なんて淡い期待も抱きかけたけど、それは彼女の迷惑になるだろう。必死でその思いを踏みとどまった。

 放課後がやってくると、ぼくはひどいいじめにあった。

 今日は、男子トイレに連れ込まれて、たばこの火を身体に押し当てられた。制服を脱がされ、服を着ていると見えないような位置を焼かれたため、冬の寒さと、焼かれた部分の熱さや痛みなど、めまぐるしくダメージを受け続けた。

「これ使おうぜ」

たばこでいじめるのに飽きたのか、いじめグループのうちのひとりが掃除用具入れから青いポリバケツを取り出す。何に使うかはみんな理解したようで、さっそくポリバケツに水を入れていく。ある程度たまったところで、半裸のぼくに、頭上から冷水をぶちまける。

 急激に冷やされたので、頭の血が身体じゅうに行き、頭はすっきりとした感覚になる。しかし、それと同時に、外気の冷たさに敏感となり、身体はがくがくと震えだした。その矢先に二度目の行水が行われた。寒さだけでなく、傷口の痛みもぶり返した。濡れねずみのようになったぼくを見て満足したのか、その日のいじめはそれで終わった。

 ぼくはトイレの床に投げ捨てられていた制服とシャツを払ってから、それを着た。あまりきれいではないだろうけど、服はこれしか持ってきていないのでぜいたくは言えない。身体は濡れたままだったけれど、かといって拭くと傷口が傷むのでほうっておいた。

 トイレから出ると、そこには篠原さんが立っていた。

 篠原さんはぼくを見るなり、ぽろぽろと涙をこぼす。彼女の特徴的な瞳が、水滴の光の屈折を利用して乱反射する。

「ごめんね」

そう言って抱きついた。彼女の肌のあたたかさは、ほかのどんなものにも勝る救いだった。同時に、身体から蒸気が出るような気分に襲われる。恥ずかしさからだろうか。

 そのままこうしているわけにもいかない。

「ぼくは、汚いからいいよ」

両の腕の関節をまっすぐ伸ばして、彼女を遠ざける。冬のこの寒い時期に、ぼくをかまって風邪でもひいてしまったなら、申し訳ないし、いまの光景をいじめグループに見られてしまったなら、さらに悲惨なことになるだろう。ぼくはよけいいじめられることになるだろうし、篠原さんも標的となりかねないのだ。

「あなた、いじめられてるのね」

篠原さんは、悲しそうにそう言った。

「でも、大丈夫。わたしがなんとかするよ」

「篠原さん……」

ぼくは首を横に振った。これはぼくの問題で、彼女に関わってほしくはない。

「『さいか』でいいよ」

「呼べないよ」

「じゃあ、もしいじめが終わったなら、呼んでくれるよね?」

「えっ?」

「さいかって呼んでくれるよね?」

「……うん」

なんだかよくわからないままに返事をする。それを確認してうなずいたあと、篠原さんはきびすを返した。

 思ったより不思議な子だ。ぼくは彼女のことを、よく知らない。

 しかし、彼女の邪念を感じさせない瞳は決意に満ちていて、まさしく正義のそれだということはわかった。

 

 

 家に帰って、シャワーを浴びると、篠原さんの件もあってか、いつもより充実した気分に包まれていた。ぼくの家には、温かく迎えてくれる家族がいて、だからこそ家にいじめの話をもちこみたくはなかった。そのため、家に帰るとすぐにバスルームに飛び込んだのだ。バスタオルで髪を拭きながら、用意されていた夕食を眺めると、急に食欲が湧いてくる。今日はぼくの好きなハンバーグだ。ぼくはすぐに髪をドライヤーで乾かして、リビングへと向かった。

 リビングに向かう途中で、ぼくはチャイムの音に足を止められる。おそるおそるドアスコープを覗いてみると、そこには篠原さんがちょこんと立っていた。

「どうしたの。こんな時間に……というか家は? どうやって知ったの」

「あなたをいじめてた小山君いるでしょ」篠原さんは憔悴した感じだった。

「あいつに聞いたの?」

「うん。それに、いじめもやめさせた」

「どういうこと?」

「やめさせたの」

篠原さんは、ぼくの目をじっと見つめた。彼女がこんな嘘をつくような人ではないというのは、放課後の態度から察せられた。

「ほんとうに?」

「ええ」

「……ありがとう」

「これで『さいか』って呼んでくれるよね」

「うん。ありがとう、さいか……さん」

「さんはいらない!」

訂正させられる。

「ありがとう、さいか」

暗くてよくわからなかったけれど、彼女の身体をよく見ると、そこには今できたばかりの傷が大量にあった。その傷は、青あざになっていたり、切り傷になっていたり、擦り傷になっていたり——とにかくさまざまなものがあった。右腕はだらりと垂れていて、もしかしたら骨折しているのかもしれなかった。

「この傷、どうしたの?」動揺を隠せないまま、ぼくは尋ねる。

「決闘したの」

「決闘?」

「そう。決闘。勝ったらあなたをいじめるのをやめさせるって約束した。そして勝った」

簡単に言ってのけたものの、さいかには発育のいい男子中学生と戦って勝てるだけの力があるとは思わなかった。しかし、虚勢を張っているようなそぶりも見えなかった。ほんとうにやったのだと信頼できるような、希望に満ちた顔をしているのを見て、ぼくは安心した。

「なんで、そこまでしてぼくのことを」

「あなたのことや、それにあなたをいじめていた人たちのことを、もっとよくわかりたかったから」

「どういうこと?」

「いじめてられている人と、いじめている人の架け橋になろうとしたの。お互い、わかりあうことができたら、いじめなんて起きないでしょ。それに——」

「それに?」

「お願いしたいことがあるの。それはあなたにしかできないことだから」さいかは言った。昼間の澄んだ声が、少し疲れのあるような調子で聞こえてくる。「もちろん、危ないことなんかじゃないから、安心して」

ぼくのために、ここまでしてくれたさいかの頼みとあっては、ぼくは断ることもできない。すぐに了承する。

「とりあえず、手当てをしよう。あがっていってよ」

「ありがとう。それじゃ、その間に少し話そっか」

 

 

 部屋には下着だけを着けたさいかがいて、彼女はベッドに腰掛けていた。信じられないような光景にどぎまぎしながらも、彼女の背中に脱脂綿に染み込ませた消毒液を塗っていく。塗ったところにガーゼや絆創膏を貼ったり、湿布を貼って手当てをこなしていく。折れていたかと思われた右腕は、幸いにも打撲のようだった。動かすと痛むが、動かせないわけではないようだ。

「手馴れてるんだね」

「まあ、慣れてるからね……」

ぼくはため息をついて、「終わったよ」とさいかに告げる。「右腕もちゃんと見てもらったほうがいいし、あとで病院に行ってね」

「ありがとう」さいかはほっとしたように礼を言った。

 さいかが着ていた制服に袖を通しているとき、ぼくははじめてさいかのことをまじまじと観察した。

 さいかはぼくがいままで見てきたどんな女の子よりもかわいかった。

 あどけない顔だちの中に、芯の通ったしっかりとした女性の顔が垣間見える、大人と子供の中間にあるような容姿で、身長も百六十センチはあり高いほうだ。肩まで伸びる黒髪はつやがあり、歩けばシャンプーの香りが漂ってきそうだった。特徴的な太陽フレアの瞳は、彼女がなにか特別な存在であることを思わせるようで、その輝きの中にはすべての生命の祈りがこめられているようでもあった。

 制服を着て、身だしなみを整えると、さいかは改めてぼくに向き直って、床に正座した。

「あなたに頼みがあるって言ったよね」

ぼくは恐縮して、小さくうなずくことしかできない。

「あなたに、協力してほしいことがあるの」

「……それは、いったいどういうことなの?」

「来月——おそらく三月。この街に《大きな黒い影》が現われるの。それを倒すのに協力してほしい」

さいかは真剣そのものだった。《大きな黒い影》だなんて、どうしてそんな抽象的なものが存在しえるのだろうか。

「疑ってるみたいね」さいかは、ぼくの心を見透かしたようにそう言い放ち、「まあ、普通はそうなるよね」とつぶやく。それからぼくに《大きな黒い影》の説明をはじめる。

「わたしが《大きな黒い影》のことをはじめて知ったのは三年前の六月、まだわたしが東京に住んでいたときのことね。夢の中に《大きな黒い影》が現われて、「東京でたくさん人が死ぬぞ」って言ったの。《大きな黒い影》は、その名前のとおりのかたちをしていて、わたしに語りかけた」

三年前の六月に、東京であった事件の予言——そのとき、何があったのかをすぐには思い出せなかった。さいかは、詳細を伝えるように、事件のことについて言及した。

「『秋葉原通り魔事件』っておぼえてる? あれが起きたの。その夢の翌日に。そのとき、わたしが住んでいた大田区から、秋葉原のほうを見たら、空に黒い影のようなものがかかっていた。それが、《大きな黒い影》の正体なんだと思う」

「その、《大きな黒い影》が、今度はこの街に現われるの?」不安になって聞く。さいかは不安げな顔をして、それからうなずいた。

「《大きな黒い影》は、次は一万人以上の人が被害に遭うって言ってた。だから、今度はわたしが先回りして、止めないといけない」

「なんでその、大きな……」

「《大きな黒い影》」

「《大きな黒い影》はさいかにわざわざ教えてくれるの?」

「わからない。もしかしたら、いい《大きな黒い影》と悪い《大きな黒い影》がいるのかも」さいかは言葉を選ぶように、慎重に会話を紡ぎだす。「もしかしたら、心のどこかで止めてもらいたいって思っているとか」

「そうなのかな」

「わからないけど、止めなきゃいけないんだって、そんな気がするの。手伝ってくれるよね?」

ぼくは逡巡する。たしかに、さいかのことは手伝ってあげたい。しかし、死んでしまうかもしれないというのなら、怖い。ぼくはまだ十四年しか生きていないのだ。それなのに、ここで人生が終わってしまうというのは堪えられない。

 数十秒の時間が、ずっと長く感じられた。心の中でさんざん迷ったのちに、ぼくは覚悟を決める。

 さいかはぼくの恩人だ。

 さいかのおかげで、ぼくは救われたのだから、ぼくもさいかを助けてあげたい。

「さいか、ぼくは……」

さいかは言いかけるぼくの唇に人差し指を当てた。

「すぐに答えなくてもいいよ。迷っているんでしょ」

ぼくは首を横に振る。

「いいよ。決めたんだ。きみはぼくを救ってくれた。だから、ぼくはきみのためなら死ねるって、そう思う」

「双葉亭四迷ね」

「?」

さいかはくすりと笑った。さいかはこんな風にも笑えるんだな、なんて、呑気にそう思った。

「ううん。なんでもない。それじゃよろしくね」

左手で握手を求めてきたので、ぼくも左手で返した。右手を使わなかったのは、彼女が左利きだからではなく、きっと右腕を怪我しているからだろう。ぼくは一言、「ありがとう」とだけつぶやいた。

 

 

 

「あなたには、いまからみっつのものを集めてほしいの」

翌日、すっかりいじめから解放されたぼくは、さいかと放課後の作戦会議を開いていた。いじめグループは、みんなが怪我をしていて、その被害はさいかのそれよりも大きいようだった。女子中学生にボコボコにされたなんて、プライドの高い彼らは口が裂けても言えないだろう。気の晴れるような感じがした。

 ぼくは、さいかの提案を大学ノートにメモして、それから質問した。

「みっつのものを集める?」

「そう。《大きな黒い影》を止めるためには、その道具がないといけないから」

そう言うと、さいかはぼくの大学ノートに女の子独特の丸文字を刻んだ。

 

・熟れたりんご

・黒い立方体の箱

・獅子のたてがみ

 

 その奇妙なみっつの道具を見て、頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ。

「どうしてこれが必要なの?」

質問の答えをぼくは待ったが、さいかは困ったように答える。

「それは言えないけど、とても大事なものなの」

「言えないの?」

「それを言ったら、見つけられなくなってしまうかもしれないから」

さいかの答えは不明瞭なものだったけれど、不思議と説得力はあった。ぼくは「それならしょうがないか」と誰にともなく言って、それから話を続けた。

「いつまでに集めればいいの?」

「うーん。二月末には集められたらいいんだけど」

「わかった。がんばってみるよ」

そう言ったはいいものの、獅子のたてがみなんて簡単に手に入るようなものではない。しかたがないので、他のふたつを先に探しておいて、それから獅子のたてがみをどうにかしたほうがいいのかもしれない。

 会議を終えると、荷物を学校の指定かばんに詰める。その作業をしているとき、背後からさいかが語りかけてきた。

「一緒に帰るよね?」

「え?」

「けっこう暗くなってるけど、ひとりで帰るの?」

振り向くと、さいかは満面の笑みを浮かべていた。ぼくと帰るのが嬉しいのだろうか。彼女も指定かばんを肩にかけており、準備は万端だった。夜道でいじめていたグループに遭遇しないか不安だったけど、さいかが決闘して話し合ったというのだから、そのあたりのことはきっと大丈夫なのだろう。ぼくはさいかを信じて、そのことは何も聞かないようにした。

「一緒でいいの?」

「いいんだよ。こっちのほうはあまり街灯もないから、できればふたりで帰ったほうがいいでしょ?」

「でも、ほかに一緒に帰る人とかいるんじゃない?」

「ううん。いないよ。だってわたし、今まで友達いなかったし」

「そうなんだ」

さいかの容姿や性格なら、友達のひとりやふたりくらいいてもおかしくはないはずだ。そう考えていたので、意外だった。

「友達を作るっていうのは、簡単なように見えて難しいから」

「そうだね。ぼくもそのことはよくわかってるつもり」

ぼくたちは校門を出ると、ふたりで通学路を歩いて帰った。通学路には電灯がいくつかあったけれど、大通りに比べれば比較的暗かったので、いつもひとりで帰るときには駆けるように帰ったものだ。しかし、ふたりで帰ると安心感があって、ゆっくり語らいながら進むことができた。ぼくたちがいままで、どうやって過ごしてきたか、ということを中心に、どういう本が好きとか、どういう音楽が好きとか、そういう趣味のことについても話をした。さいかはその中で、ある人のことを話題にしたのだけど、そのことがとくに印象に残った。

「わたしは昔、あなたみたいにいじめられていたの。小学生のいじめだから、あなたほどひどいことはされなかったけど——そのときに、わたしを助けてくれたのが、近所のお兄さんだったの」

「その人は、どんな人だったの?」

「やさしい人だったよ。運動ができたり、勉強ができるってわけじゃなかったみたいだけど……その人にしかないあたたかさがあって、それがわたしにとっての救いだった。わたしが仲間はずれにされていたときには、よくそのお兄さんと遊んだの。お兄さんは男の人だったから、怪獣の人形とかを使って、それでごっこ遊びをした」

「怪獣で?」

「うん。変な話でしょ。お母さんはキングギドラで、お父さんはウルトラマンなの。それで夫婦喧嘩のときには街を破壊する。みんな、周りにいろいろな迷惑をかけるけど、それでも、本人は必死だから、あとで謝ったらちゃんと許してあげるようにしていた。あなたも、そうしてよかったんだよ。いじめられたときに、助けを求めても、誰もあなたのことは悪く言わないから」

ぼくは何と言っていいかわからなかった。さいかは続ける。

「きっと、《大きな黒い影》も同じ。何か悪いことをするだけの理由があるから、そうしているだけ。もしかしたら、《大きな黒い影》も、何かに必死になって、もがいてるだけかもしれない。だから、わたしは一度、《大きな黒い影》に会って、話をしたい」

「さいかなら、うまくいくと思うよ」

「ありがと」

話をしていると、時間が経つのは早い。いつしかぼくは家の前までついていて、さいかは手を振ってくれている。ぼくもさいかに手を振り返すと、家のドアを開け、玄関で大きな声で「ただいま!」と言った。ひさしぶりに、心から元気な声が出せたような気がした。

 

 

 道具集めは思ったより難航した。熟れたりんごは「美術のデッサンで使うから」と言って母に頼んで、買ってもらったのだけど、黒い箱はお店に行っても見当たらず、ましてや獅子のたてがみは集めようがない代物だった。平日には学校があるので、土日にいろんなところに足を運んだけれど、結局手がかりすらつかめなかった。しかたがないので、黒い立方体の箱は、ぼくが自分で作ることにした。厚紙を正確に測って切り、糊付けをするという作業を行ったのだ。そして、それを黒の塗料で覆う。そうしている間にも、着々と時間は進んでいき、焦りを感じる。

 獅子のたてがみが、もしかしたら、何かの隠語なのかもしれないと思い立ったのは、二月も終わりに差し掛かった二十七日のこと。インターネットで『獅子のたてがみ』という検索語を入れて、調べてみると、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズシリーズ」に『ライオンのたてがみ』というタイトルの本があるということと、その小説の中に出てくるライオンのたてがみという名前のクラゲ——サイアネアクラゲがいるということもわかった。

 しかし、本当にさいかはこんなものが必要なのだろうか。

 悩んでいても仕方がないので、『ライオンのたてがみ事件』というタイトルの本を買うことにした。岩崎書店のしっかりした装丁の新装版で、千五百円もしたので、中学生の財布には痛かったけれど、これで安心だと、そう思った。

 やがて時間は過ぎていき、運命の日、三月十一日となった。

 

 

「今日、夢を見たよ。《大きな黒い影》の夢を」

朝のホームルームが終わると、さいかが近づいてきて、ぼくにそう言った。彼女が口火を切ると、ぼくも「ようやくだね」と返した。三月に入ってから、ずっとそわそわとした、浮遊しているような気分だったのだ。それが、やっと終わりを告げるのだとわかって、少しほっとする。

「準備はしてきた?」

「もちろんだよ」

ぼくはうなずく。準備は万全のはずだ。これからどんなことが起きようとも、大丈夫だと言えるような安心感があったのは、さいかがいるおかげだろうか。

「それじゃ、行こうか」

ぼくとさいかは、息ぴったりに学校を抜け出した。ふたりで走って、階段をくだり、校庭を駆けていく。どこに向かうかはわからなかったけれど、さいかが手を引いて誘導してくれた。さいかの手はあたたかく、できることならずっと離したくない。ふたりの呼吸は冷たい空気と混ざり合い、白の気体となって体外へと放出される。これから起こるであろう、戦いのときが目前へと迫っているのに、ぼくたちはいままでで一番生き生きとしているようだった。

 しかし、その揚々とした気分は、一瞬にして打ち砕かれる。

 目の前に、黒い影が立ち込めてきたのだ。

 その黒い影は、一点に集中し、ひとつの広い空間を作り出す。それはまるで、ローマのコロッセオのように、ぼくたちを待ち受けている。

「おあつらえ向きの場所ね」さいかは苦しげに笑った。さいかの手は震えていた。さっきまであたたかかったはずなのに、彼女の手はどことなく冷たくなっている。

「大丈夫だよ」ぼくはさいかの手をぎゅっと握り締める。さいかも、それに応じるようにぼくの手を握り返す。

ぼくはかばんから、用意したみっつの道具を取り出す。熟れたりんごと、黒い立方体の箱、そして——そしてもうひとつの、『ライオンのたてがみ事件』という本。

 しかし、その本を手に取ったとき、ぼくは絶望する。

 これじゃない。

 理由はわからないけれど、これは、さいかに頼まれたものではないというのだけは理解した。どうしてこんなときに、気づいてしまったのだろう。

 さいかはぼくの目を見て、それから「気にしないで。あなたはよくやってくれたから」とだけ言った。ぼくから熟れたりんごと黒い立方体の箱を受け取り、さいかは前を見て一歩一歩、黒い影に吸い込まれるように進んでいった。ぼくもあとに続いて、黒い影のコロッセオへと向かう。

 ぼくとさいかは、ほぼ同時に黒い影へと入ったのだけど、ぼくは観覧者用の席に座っており、さいかは決闘者用の円形闘技場のステージへと立っていた。彼女の太陽フレアを宿した瞳は、ここからでも十分に見ることができたけれど、ぼくはどうやら一緒には戦えないようだ。ぼくはただ、彼女を応援してやることしかできない。

(それだけでいいんだよ)

 僕の心の声を聞いたのか、さいかは心の声を返した。

(あなたがいたから、わたしは戦える)

(さいか……きみなら、あの《大きな黒い影》を止められるさ)

(ありがとう)

やがて、《大きな黒い影》が円形闘技場に入場する。十メートルはゆうにある大きさで、ちゃんと四肢もかたちづくられている。まるで巨人のようだ。霧状の身体からは、死のにおいが立ち込めていた。ぼくはとっさに鼻をつまんだ。さいかは、そのにおいにも巨体にも動じることなく、《大きな黒い影》に心の声を送った。

(どうして、あなたは殺すの……?)

《大きな黒い影》は答えない。あくまで、そのように決まっているからそうするとでも言いたげに、霧状の腕を組んで胸を張る。さいかは悲しそうな顔をした。

(あなたは——悪い《大きな黒い影》なんだね。許せなくて、ごめんなさい)

 さいかは諦めて、影の巨人に相対する。

 影の巨人は、霧状の影で作られた腕を振るい、さいかを弾き飛ばす。一気に円形闘技場の端まで吹き飛んださいかは、口から喀血しながらも、身体をよろよろと立ち上がらせ、もう一度影の巨人のほうを向いた。そして、その程度の攻撃では効かないとばかりに、巨人のほうをにらんだ。

 影の巨人は、歩くたびに死のにおいを撒き散らしながら、さいかのほうへと迫っていった。さいかは壁際に追い詰められたが、それを意にも介さず、影の巨人のパンチを身軽にかわしていく。その虚をついて、さいかは逆に、壁際に影の巨人を追い詰めることに成功した。

 さいかはぼくから受け取った熟れたりんごを食べると、太陽フレアの瞳をいっそう輝かせて、ついには瞳からその光を取り出す。小さな太陽から放たれる赤い光は、黒い影の中に入り、影を消し飛ばそうとする。どうやらそれは《大きな黒い影》の弱点らしい。光は切れ味の鋭い刃のように、黒い影の巨人の身体を分断していく。しかし、《大きな黒い影》も黙って攻撃をされ続けているわけではない。《大きな黒い影》は、ばらばらになった身体をひとつに集めて、光によって切られたダメージをもとに戻そうとした。

 さいかはそれを見て、すかさず黒い立方体の箱のふたを開けた。ぼくが作ったときには、何の変哲もない、ただの厚紙でできた箱だったのに、この黒い影の世界に来てからは、魔法をかけられたみたいに、切り取られた黒い影を吸い込む箱となっていた。《大きな黒い影》のもとへ戻ろうとしていた、細かな影は、掃除機にでも吸い取られるように箱の中へどんどん納められていく。

 ふたつの道具によって、ほとんど勝負は決した。

 太陽フレアの光によって、《大きな黒い影》は身体を少しずつ小さくしていき、最後にはほとんど見えなくなってしまう。ぼくは勝利を確信して、席を立ち上がった。

 さいかを迎えに行かなければ。

 ぼくは観覧者の席から、闘技場へと向かった。闘技場に降りるには、けっこうな高さを飛び降りなければならなかったけれど、いまなら、どんなところから飛び降りたとしても、大丈夫なような気がした。

 闘技場へ降りようと、境界となる柵に足をかけようとする。しかし、透明の壁に弾き飛ばされたかのように、ぼくは降りることができなかった。ぼくはもう一度、柵を飛び越えようとする。そのとき、ふと闘技場に目を遣ると、さいかが力を使い果たしたように、地面に倒れていた。

「さいか!」

ぼくは叫んだ。しかし、さいかはぴくりとも動かない。

 いったい、何が起こったのだろう。嫌な予感がこみ上げてくる。獅子のたてがみがなかったからなのだろうか。そんな考えをかき消すように、大きな揺れがはじまる。

 その場に立っていられなくなるほどの、大きな地震がぼくを襲った。

 地面は音を立てて割れ、さいかはその中に、飲み込まれていこうとしていた。

 ぼくはもう一度、さいかの名前を呼んだ。

 声が届いたのか、さいかはにっこりと笑った。その瞳には、以前のような太陽フレアの光はない。さいかは普通の女の子になったのだ。ぼくは力を振り絞り、彼女のもとへと向かおうとする。

(ありがとう)

なんとか立ち上がったぼくの脳内に、さいかの心の声が届く。

(いま助けるから、待ってて)

(もう、いいんだ)

(何言ってるんだよ!)

(わたし、友達ができて、うれしかったよ)

(さいか……)

(それと、獅子のたてがみ。わたしにはもういらないから、あなたにあげるね)

さいかは、もういらなくなってしまったとばかりに、ぼくに獅子のたてがみを渡そうとする。それは、ぼくとさいかとの距離をものともしないように、ぼくの制服のポケットにするりと納まった。

 さいかの身体が、地面へと埋まっていく。

(《大きな黒い影》は?)最後の確認とばかりに、彼女は聞いた。ぼくはあたりを確認して、(もう、いなくなったよ)と答えた。

きっと、最後の力を使ったんだ。《大きな黒い影》は、どうしてもやらなければならないことがあった。《大きな黒い影》は、人間や、他の生き物とは考え方が違うのだから、ぼくたちを殺してしまうのも、しかたのないことなのかもしれなかった。

 さいかは、最後まで笑顔を絶やさないまま、大地へと消えていった。

 ぼくはただ、ずっと立ち続けて、さいかの消えていった場所を見つめていた。

 

 

 公園で野球を楽しむ子供たちを見ながら、ぼくはブランコに腰を下ろしていた。新しく着た高校の制服は、どことなく大きめで、毛布に包まれているように安心できた。ぼくはそこで、春のあたたかな陽気に触れながら、読書をしていた。その本は、さいかが昔、好きだといっていた本で、どうやら「正義」についてのことが書かれている本らしい。内容は、ぼくが読むには少しむずかしかったので、交互に子供たちが野球をしているのを見ながら、ゆっくりと読み進めていた。

「すいませーん」

足元にボールが転がってきたので、ぼくは彼らにボールを投げ返した。すると、少年のひとりが、ぼくに気恥ずかしげな表情を向けながら、「ありがとうございます」と言った。ほかの少年たちも、それにつられて「ありがとうございます」と続いた。

 少年のうちのひとりが、ぼくに話しかける。

「お兄さん、野球好き?」

「うん。まあ、それなりに」

「だったら、一緒にやらない? お兄さんが来てくれたら、人数がちょうどいいんだ」

そう言われて、ぼくはそこにいた人数を数える。ちょうど九人と、少し離れたところから見学している女の子がひとり、ベンチにちょこんと座っている。

「あそこにいる女の子は?」

「あいつは女だからさ、野球って男のするスポーツだろ?」少年は悪気もなく笑った。

「ぼくより、あの子を誘ってあげなよ。一緒にやりたいって言ってたんだろう?」

「んー。まあいいけどさ」

少年はしぶしぶ了承して、遠くで見ている少女を誘いに行く。少女は、ここでのやり取りを察したのか、ぼくに一礼をした。少女の瞳は、ガラスのように澄んだ色をしていて、まるであの、太陽光フレアの瞳を思わせるような、汚れのない美しさだった。

 少女は打席に立つ。

 そして、少年が手を抜いて投げた一球目のスローボールを、思い切り芯で捉えた。夕焼け空へ高々と上がっていくボール。ぼくはそれを見送りながら、これでよかったんだと得心した。ふと、太陽と目が合って、それがまぶしくて、あまりにまぶしくて、ぼくは涙を流すのを止められなかった。しかし、いじめられていたときのように、自分がみじめだとは、露ほどにも思わなかった。

 白球が見えなくなってしまったので、どこへともなく行く。すべてにおいてあてのない旅をはじめている。

 おそらく、すべての人がそうだ。所有、ということばができたのはいつだったかはさだかではないけれど、ぼくの旅路もぼくによって所有されたものではない。出発地も目的地もなく、あるのはただ現在地のみ。何ひとつ、ぼくのものなんてものはない。あるのは、ただそこにいるという確信だけ。

 さいかの記憶も、ぼくのものではない。

 さいかはさいかのものではない。

 さいかはぼくたちのものであり、ぼくたちはそれを失った。いや、手にしていたように感じていただけかもしれない。

 ぼくたちの中で、誰かが《大きな黒い影》になるときがくるのかもしれない。あるいは、より恐ろしい、巨大なものになるときがくるのかもしれない。そのときがきたら、ぼくは、さいかを救ったお兄さんのように、あるいは、さいかのように、「まあ、しょうがないよな」なんて、おどけて許してあげたい。

 そうすることで、ぼくはさいかになれるし、さいかはぼくになる。

 ぼくはさいかになろうと思った。

 そのとき、ぼくはさいかとなる。

 そして、いままでにないくらいの、とてつもなく巨大で恐ろしい《大きな黒い影》が現われようと、これからもさいかであり続けようと、そう誓った。